アルゼンチンつれづれ(16) 1980年02月号

日本へゆく

 豊かな量の牛肉。物価も安いし本当に住み良い国とゆったりかまえていたのがうそのよう。急激に世界の物価高国の仲間入りをしてしまったアルゼンチンの人々は、大切なバカンスを外国で過した方が割り安で、もっと魅力的と、学校の夏休みが始まるのと同時に、ブェノス・アイレスから国外へ出る飛行機は向う二ヶ月間は満席という状況の中での、私達の日本行は、学長が全校生徒一人づつに終了証を手渡す終業式の最中に抜け出さなければならないというあわただしさです。
 家族の、信じられないという言葉に関係なく、一番の金メダルを受賞して一年生を終了したセリーナ・ユノ(次女)はすぐ名前を呼ばれ、まず安心。それから父兄の悲喜こもごもの思いを交えた、イタリア系、スペイン系の名前が呼び続けられ、私は非情にも他人の子供の成績に興を示さず、ただひたすら時計とにらめっこ。三年生のエリカ・タマユ(長女)が呼ばれると同時に席を立ち、二人の子供の手を引っぱって式場を飛び出してくるということが出来るのも、「混雑しますから、成績表を受取った父兄はお帰り下さい」という、ものすごくアルゼンチン式に大感謝です。
 エセイサ空港への車中、草を食む牛達を見渡しながら、事あるごとに登場する三河御津の海苔でまっ黒なおむすびにかぶりつく子供達。私の決めた通りに従順な由野。学校やクラブの友達と「長く別れるのがいやだ」と駄々をこねる玉由。私の子供がよもや日本へ行くのをいやがるなんて。
 もう“私の赤ちゃん”ではなく、一人の意志のあるアルゼンチンの一員として育ってきていることを、淋しいような、心強いようなそしてこれで良かったのかしらと改めて思う出来事でした。私自身にしても、年々アルゼンチンから抜け出す時に交差する気持が複雑になっていることは自覚していますが、もう飛行機の時間は決っているのです。子供達の父親と合流する為にサンパウロへ向けて、やりきれないように蒸し暑い日になったブェノス・アイレスからの脱出です。
 もうすぐ日本へ帰り着くとなると、日本への気持は逸り、サンパウロの日本人街で、トロ、イクラ、ウニと日本語のすしで、日本よりも、アルゼンチンよりも安いのがありがたく、大変な量をたいらげるのと同時に、パナマヘ向けての飛行機の中での弁当に赤飯を買おうと気を配るのは、頭の中を日本人のカセット≠ノ入れ替えたという八歳の娘。
 今回の旅の二ヶ国目パナマ。十三年前、未地に立ち向った私のありったけの持物をたずさえて乗ったブラジル丸で、名高きパナマ運河の名前に緊張して通った所を、思い出話とともに子供達に見せたいという私の思いは一方通行で、細い人工の河に興味を示さぬ二人は、海賊モルカンの宝のゆくえが気になって立派に舗装された道の両側の、今なお猛獣が出るか賊が出るか、九十キロのスピードで走るレンタカーの窓をしめたくなるような原始林の中へも入って行きそうな勢い。モルガン一味が宝をかついで歩いたという原始林の中の細い道に宝が零れているかもしれないという発想でもって。野獣、毒虫達のまったく安住の所と見えた。
 そんな身の引きしまる道を長々と通って、視界が開けると、半裸に肌の黒い、おびただしい数の子供達が走り、遊ぶ、貧しさと異民族と異臭と暑さのコロンの町。世界の人口の大きな比重を示すという、彼等の生活の場を伏目がちに通り、十三年前、大蜥蜴と目と目が合った地点を子供に指し示すと、パナマ市から約六十キロを、一目散に車を走らせてきた目的は終りです。
 とにかく、日本とは異なる気候です。路地に坐って遊ぶ黒い子供達のことが、子供を育てている私の十三年前の思い出の上に重なって、大体のことが記憶に残ってゆく年齢の私の子供たちは、同年代の彼等のことをどんな目で見たのか、見せる必要があったのか、なかったのか。(つづく)

 
 

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