アルゼンチンつれづれ(54-2) 1983年04月号

アルゼンチンからニョッキ

 発泡スチロールの容器に入って、凍っている物の荷を解いてゆく。見慣れ、使い慣れたアルゼンチンの紐、紙。包み方も、初めてアルゼンチンで「おや、日本と違う!」と異国の人々の中に混った思いを大きくした方法。懐かしい。
 上等の紙を三つ目、四つ目と開けてゆき、やっとそれ程の中身でもないのにという食物に行き当る日本の「これでもか。」と贅を誇る包装を見慣れた目には、アルゼンチンのがいかにも惨めっぽく、いじらしいのだけれど。我家の「台所、食堂」と親しんできて、黙って坐っていれば、その日の一番おいしい料理でテーブルを満してくれる、ブェノスアイレスのレストラン「タバレー」のコックさんより、子供達の父親の帰国に託して、由野の好物ニョッキ(マッシュポテトと卵、粉チーズ 、小麦粉を捏ねて、小口に切り、湯掻いてスパゲッテイと同じ様なソースを掛けても、おろしチーズだけでもおいしいという料理)が届いたのです。
 由野とニョッキの関係。どんなレストランヘ行っても「ニョッキ」と一言。頑固なのです。他にもいろいろおいしい物があることを教えたくても、アルゼンチン式大盛の一皿にアタックすれば、もうそれまでです。
 大統領がいらしての体操のエキジビションをすることがあった時、「あまりお腹が大きいとみっともないから。」と半分も残して、常の由野ではないと皆から笑われたこと。
 マルガリータが台所をしている頃、ニョッキの日には、家中に小麦粉の足跡がつきました。大きいのはマルガリータ。小さいのは、台所ヘニョッキの様子を見に行った由野のです。その掃除の為にマリアが来て、おかしなことだと思いましたけれど、家の中は和やかでした。
 私も、なるべくカロリーの少ないニョッキを開発して、由野に協力したりもしましたっけ。
 包みから出た物は、さっそく調理して、湯気が立つ、高輪の家にアルゼンチンの香が満ちる。
 アルゼンチンで私達の日常生活のまわりにいた人達が、好物を覚えていてくれて、「あったかいなー、アルゼンチンの人。」心の会話がアルゼンチンヘとんでゆく。
 先回、アルゼンチンヘ行った時も、飛行場からの車が我家に着くなり、通りがかった顔なじみの人達に、とても歓迎されました。近くの八百屋さんまで出かけた時、あちこちで立話をして、皆に抱き抱えるように迎えられて、なかなか家へは戻れませんでした。
 我家の向い側は、教会の一劃、石畳を割るタンポポ、プラタナスの並木が四季を教え、町の中のオアシスのようなギーセに十六年間住み続けました。
 お金などなかったのに、「ここに住みたい」と叫んでしまったあの時。見知らぬ地で、せめて自分が安全に籠っていられる所が欲しかったのです。
 小さなコンクリートの囲いを買ってしまおうということが原動力となって、仕事が捗ってゆくようになりました。友達ができてきました。言葉も覚えてゆきました。玉由が生まれて、同じビルのもう少し広い所に買い変えました。女中部屋がありましたから、マルガリータがやってきました。マルガリータが掃除をしない部類のお手伝いさんとわかってマリアがきました。由野が生まれて、一家四人の型がととのいました。そして今誰もいなくなった我家は、着けばそのまま住めるように、淡いブルーの瞳の管理人が管理していてくれます。彼とも、「ここが欲しい。」と叫んで以来の付き合いです。

 
 

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