アルゼンチンつれづれ(61) 1983年11月号

大韓航空機事故

 「また来年も行きたい!」「楽しかったなあ、“ハーイ”って言えばもう友達になれるの……いっばい友達が出来ちやった」「初めて逢ったのに、昔から知っているみたいで、皆暖かくって、やっぱし玉由は外国向きに出来ているんだね」「もうアメリカという国が平気になった」「野莱がアルゼンチンのと同じ味だったよ」「女の子七人で住んだんだけれど、バンガローに蝙蝠が入り込んだの、追い出すのに大騒ぎ、蝙蝠を近くで見るなんて。夕方いっぱい飛んでいた」「窓から栗鼠がのぞいて玉由を見ていたよ」「湖があってね、毎朝泳いだの」「きれいな所、年を取ったらあんな所へ住みに行こうね。あと何マイルかでカナダとの国境なの」「自由時間には、音楽をボリュームいっぱいにして踊った踊った。日本で聞いたことある曲がはやっていたよ」「日本語や日本の歌も教えてあげて……寝る暇がないくらいだった」「アメリカの子はアルゼンチンの友達と物の考え方が同じ、日本の子達はちょっと違うんだな」まっ黒く陽に焼け、底抜けに陽気でリズミカールなアメリカ娘のようになり、一人でしてきた盛沢山の経験をしゃべりまくる玉由の、その口を封じて“悲しい出来事”を報告しなければなりませんでした。
 夏休みをアメリカに滞在して、新学期に間に合うようにと日本へ帰途の、玉由の親友
「るね」
留音が撃墜された大韓航空機に乗っていました。
 玉由がアメリカ滞在中のこと故特に飛行機事故に神経を尖らせていた私は、留音のニュースに悲鳴をあげました。「玉ちゃんの友達を殺したなんて許せない」と由野の怒りも爆発しました。
 玉由「どこかに浮いて生きていられることはもうないの?」「棒を持って、撃ち落した人を殴りに行く訳にはいかない? スケートが上手になる以外、玉由に出来ることはないんだね」「転校して一番初めの日、とまどっていたら声を掛けてくれたのが留音だった。そのうれしかったことが忘れられないから、新しい子が入ってきたら声を掛けて、わからないことを教えてあげるようにしたの。留音が教えてくれたんだ」「留音は悪いことをしなかったのに、死ななければならない理由なんて何もない」「今までテレビや新聞で、事故や戦争で人が死んでいったことを知っても、かわいそう! 戦争はやめなけれぱ! と思いつつも、ただ通り過ぎていた。だけど今は違う、一人の人が死ぬと、悲しむ人がいっぱいいて、その悲しみがどんなものであるかということがわかった」「せっかく生まれてきたのに十二歳でお墓に入るなんて。そうだ、留音はそのお墓にすら入れず、どこでどうなっているのかわからない。せめてお墓に入れてあげたい」と十二歳の玉由が、十二歳の友を思って泣く。一つ歯車が違えば、我子に振りかかったかもしれない出来事に、恐れ、おののき……辛い。
 広い屋敷の中で、何知ることも、何起ることもなく、おっとり育った私と違い、現代に生きる子供に押し寄せ、身を心をかきむしってゆく恐しい出来事。
 一人でアメリカヘ行ってこられて、『アメリカの子供達と同等に会話が出来た』とキャンプの先生から報告のあった英語、母国語であるスペイン語、父母の言葉日本語、をフルに活用させて、最も身近だった友、留音が死んでいったことを無駄にはしない生きかたをして欲しい。
 とてつもなく大きな経験をした、十二歳の夏休みが終っていった。

 
 

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