アルゼンチンつれづれ(72) 1984年10月号

バーバンクへ

 木の天辺に、花が残っていましたハカランダ。百日紅の多い町、色とりどり満開。爽竹桃の花々。名を知る術を持たないのが残念。大木に実がなり、歩道に落ち積もる。メキシコにも多く見られたアグアリバイ(コショウボク)が懐かしく、ピンクの小粒の実を鈴なりにして。リンピアポッテージャ(ブラシノキ)も今が盛り。
 端っことはいえアメリカ大陸に住んだことがよみがえる木々花々に加え、大きな大きな空の国、カリフォルニアの陽に焼けて、玉由がいました。
 「ヤア、久し振り。」「昨日の練習で捻挫しちゃた。」着くなり、逢うなり、ハイウエーを突っ走ってのお医者さん行き。
 弱電流を打ち身に通す治療を何分間、ゼリー状の物を患部に塗っての電気マッサージも加わって。
 やさしく、頼もしく、甘えかかっていれば治ってしまうような雰囲気のお医者さんでした。他人に接するのが本当に上手。
 設備、医者、看護婦の患者に接する様子等見られたことが、私の新しい見聞となった程度の捻挫で幸いでした。
 玉由が三ヶ月近く住んだ町、私が一週間をかけて迎えに行った町、バーバンクとは、
「緑豊ではあるけれど、砂漠の上に後ほど植えたのではあるまいか」。とどの景色にも椰子が高く聳える町に、タクシーが走るのを見ない。電車、汽車、バスも人々の目常の移動を助けようとはしない。私のように「車を運転するのだけはいや。」という人間は、まっ先に住むことを拒否されます。
 異様なのは、ほとんど人間が歩いていないこと。歩いている人を見ると「あっ!人間が歩いている。」「やっぱり人の住んでいる町」とホッとする反面、「ホールドアープ、殺人、誘拐は日常茶飯事」との知識を詰め込まれているのだから、「人間がいると怖い」「人間がいないと不気味。」
自分もしくは自分の身辺な人が運転する車に乗って出かけないことには何事も始まらない国。自分の足に頼ったのでは、肉一切れ、パン一個も手には入れられない。言葉のいらない、大きなスーパーマーケットに車を乗りつけた時だけ、食べる物、日常の物を入手できるのです。
 今は昔の出来事、初めて船で辿り着いたアメリカは眩しかった。風景も、車も、品物も。二十年近くたってみると、「日本で買った方が。」と日本の物の方に信頼がおける現実となっていました。
 玉由に「何を送ってあげたら良いの?。」と電話で話す度に、「日本の物何でもあるよ。」「何でもあるといったって、子供が言っていることで“何かは無い”にちがいない。」との思いが私を支配していたのに、「ありましたありました。」日本の人が経営するらしいマーケットが幾つもあり、世界の品々に囲まれている日本のマーケットと違い、不思議な程日本の品々ばかりがぎっしり。
「わー!外国なのに、外国なのに、こんなに日本の品物が。」と感極まって、「あれも、これも」手籠に取り込み、支払を済ませて気がついた。「明日には本物の日本へ帰るのに。」アルゼンチンでも日本の物に憧れ続けた後遺症ですね。
スシバーと呼ばれるカウンターに夜毎坐り日本のビールを飲み、まわりがアメリカの人達であるということだけがアメリカであって「もうすこしアメリカ的に過せば艮かったかなあ!」渡り蟹のような形で「脱皮したての甲も足も軟らかい」カリフォルニアの蟹の空揚げを食べつつ。「車を運転しない片端なのだから、自分がアメリカでの生活を選ぶなんておこがましい。」と悟るのです。

 
 

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