アルゼンチンつれづれ(90) 1986年04月号

生井巖氏

 「図案というより、筆の勢いでドレスに絵を描きたい」というのは、私がずっと持ち続けている夢。アルゼンチンで染色家として、仕事が出来るチャンスが度々ありました。その時々、何とか取り繕って、やってやれないことはないと思いました。けれど臆病なのでしょうか、律義といえばかっこが良い、日本人が外国でみっともないことをしてはいけないという、日本が被さっていた故でしょうか。もっと上手になってから…。自分の腕に本当の力が欲しい…。と社会に対する仕事ということからはずれたまま。
 日本へ帰って来る折々、墨絵を習うことにしました。学生時代の先生から、若き一匹狼生井巖氏墨絵画家を紹介されました。そしてそのまま彼の二人目の生徒となる。出来上った組織の機嫌を取ったり、その評価に甘んじないで自分自身の納得ゆくものをひたすら描く。売名、売絵にほんの少しもエネルギーを使わない人の描く線、色、人柄……魅せられました。
 「三ヶ月の日本滞在中に、絵が描けるようにして下さい」と言った私の幼さが自覚出来たし、だんだん基礎へと戻ってゆく……あれから何年が過ぎていったのかしら、いっこうに私の染色家としての旗はあがりません。ブエノスアイレスの私の家の壁のスペースの大部分は彼の絵が占めています。日本へ帰った度に運びました。したがって、子供達は彼の絵の中で育ってゆきました。ブエノスアイレスの友人達とは彼の絵に囲まれて、会話し、食事、お酒の時を過しました。遠く見る近く見る、朝も夜も、正気の時、ほろよいの時、常に彼の絵の中。どんな時も、失望をもたらさない絵。勇気付けられる絵。うっとり出来ます。ハッと発見があります。
 日本での仮住い、白壁ばかりの住いも、たちまち彼の絵でうまりました。要するに、彼の個展の会場の中に住んでいるようなもので。
 彼と出逢えたのは、私の人生の幸運、けれど、私が絵を描きたいと思うのは、彼の絵のような絵が到達点であって、私がいくら努めてもとても……。そんな私好みの絵を描く人が一番親しい友人となると絵は彼にまかせる方が賢明。私が絵を描こうなんておこがましいと思ってしまうのです。
 「スケッチに行こうか」「・・展やっているね」「サンシュユ咲きだしたかな」「もう蕗のとう出てるよ」「遊ぼ」……たちまち出かける相談はまとまり、その時々の彼の興味、視線、会話から得ることが大なのです。
 「何気ない」と思っていた物が、彼のスケッチブックに移ると、「あっ!」と驚く華やかさを持ちます。だいたいにおいて「本物の方がいい」と思っていましたけれど、彼の絵に関しては本物をこえ、私に見える範囲を通り越したものが表現されます。
 岩礁を描きたいという彼について房総半島へ行きました。三浦半島の先っぽにも。コチンコチンに身体が冷えてしまってもなお岩に対している人と一緒にいられるうれしさ。その間、私は“言葉”をスケッチしたり、海牛をつついて何とか動かしてみようと試みる。磯巾着を見つける。岩のりを摘み取って食べてしまう。
 「『富士山を描くにはまだはやい』って言われるけど、はやいもなにも、描きたい物を描けばいい」と彼の言葉のまま、富士山の麓でウロウロした一日。東京からは見えない諸諸。黒い気泡の入った富士山の欠片を拾いあげた時、「今、日本に居るんだ」“日本へ行く”ことが全てだった日々のことを思った。良き友と、いろいろな場面に出逢いつつ。

 
 

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