アルゼンチンつれづれ(157) 1991年12月号

0になってみるゲーム

 『“社会”から収入を得、自分自身を維持するということが出来て、はじめて一人前の人間』と私自身に定義するから、家業の手伝いも、子供を育てることも、“付属”の次元であり、本当の私ではなかった。仕事向きに、子供向きにと取り繕い、それなりに全力でやってきたことは確かだけれど、潜在に、“自分自身になりたい”という思いは消えてゆくことはなかった。
今までに、心のままの自分で生きた時とは、高卒後、父母のもとを離れて上京し、幼い頃より布切れが好きだったから、テキスタイルデザインを選び、糸を紡ぎ、織り、図案を描き、染める。そんな勉強の時に、付随してきた諸々。仲間が出来、日本の染織を訪ねる旅……世界にも、と思いたったこと。お酒を飲みつつ……味を知っていったし、酔った罪滅ぼしに……公募展に挑戦したりも。もちろん、恋らしいことだって、ないはずはない。 父母の手の内で、力の限り跳ね回り……こんなに楽しくちゃ申し訳ない、もし0になってみたら、自分の力でどこまで辿り着けるか!という“ゲーム”を思いついてしまった。 アルゼンチンヘ行く、という念には念を入れた0になってみて、戸惑いはしたものの、手応えのある楽しさも、私なりの計り方“したいことをする”という実力も自分のものにすることが出来た。このまま私の寿命が終ればメデタシ、メデタシだったけれど、平均寿命までを三十数年残して、また0より始めるより仕方がない状態となり、これを幸いと、私個人になったら、「いったい何がしたいのか」「何をしたら社会の中に共存していられるか」、考えに考えている。
 やっぱり思いは布の上へ。さしあたって、手元にある染色の本などを読んでいる。忘れ去ってしまっていたこと、甦ってくること。アルゼンチンでも個展などをしていたのに、やめないで続けていればよかった! 化学染料で、手の皮膚が薄くなってしまっていたこともあった。ということは、地球が汚れるということらしい。今度は草木のままの染めにしたい。
 昔々、何のために布を染めはじめたか!
生藍のコバルト色は蝮がきらった。榛の木汁は、産後の血と飲み、その赤を布に移した。外傷に効いたヨモギも染料となし……まず、木々草々が薬であり、色と染められ、そして心なごませる香りとなる……。
「日本の香りを、アメリカにどうかしら」と話していたら、三百数十年も続く香屋の友人がいる、という友がいて、「それじゃ、私もその友人になってしまおう」と一日、堺まで出かけた。
はるばる辿り着いた所で、迎えてくださった車が香った。
「香を薫き込んでいるのですか」
「いや、もう染み込んでしまっているのですよ」
そして、案内してくださった香工場で、私の鼻に肺に服に靴に、しっかり三百年の秘伝の粉末を……旅の印に。
九九・九%の純度を要求される製造業をしていた私の「命に係わる物じゃないから、気楽に作ればいいですよね」という気安い感想は無視されて、「いとも難しく」「いとも真面目に」昔のままが出来上がる。
サンタモニカの私の部屋に、日本の香を満たすと、「抹香くさいの好きじゃない」と玉由がクレームをつける。玉由の部屋からは、アメリカのトロンと甘いのや、悪ぶったのが香ってくる。玉由と私の間の辺りをブレンドするという楽しみが出来た。
習ってきたばかりの香炉が両掌に温かい。毒の心配をしないで、心地良いのが文化だと思う。その辺りで生きたい。

 
 

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