アルゼンチンつれづれ(236) 1998年07月号

長崎医大

 地球の上に行ったことのない所はいっぱいあり、小さく日本を範囲にしても、知らない所ばかり。何処も彼処も行ってしまおう、なんて思ってはいないけれど、近代日本け“始めて物語”がいっぱいの長崎へは行ってみるべきだと長い間思っていた。
 幸いなことに、長崎医大へ一人出掛けて行って孤軍奮闘している甥がいて、このたび結婚することになった。最新日本の結婚式も私には未知であったし、長崎へ行くという大義名分が出来たこともうれしい。
 十何年も前になってしまったけれど、子供達の日本留学中、玉由と私とがスケートのことなど外国へ出掛ける時は、いつも由野を久我山の家へ預けた。由野の体操クラブは久我山にあり、夜、練習が終わると、今度結婚することになった私の甥の芳孝が(由野の従兄)、自転車で由野を迎えに行ってくれて、「暗い道をね、芳孝君の自転車の後に乗って、すごく速いんだよ」と、由野の決して忘れられない思い出を作ってくれていた。
 結婚相手の女医が、ニューヨークに留学をするという。何とかうまく由野と引き合わせてあげたい。そんなこんなで斎藤茂吉がドイツ留学前に長崎医療の教授をしていた長崎へ着いた。「長崎中のお医者さん達が集まってしまったんでは?」と思う大勢のお医者さんが出席して下さっての披露宴。六年か七年間の医学生生活で、こんなに沢山の立派な知り合いが出来た芳孝に感心してしまった。私には、ほとんど終わってしまった人生を、これから始める若い人をまぶしく見つめていた。 次の日、ホテルに用意されていた長崎ガイドマップを持って、長崎見物。
 市電に乗って、出島に行くつもりになっていたのに、全然それらしい様子にならない。終点になってしまった。どこかまちがえたらしい。途方にくれて歩いていると、シーボルト記念館と矢印があった。従って細い登りの長崎の人の暮らしの中をしばらく。鳴滝川の滝音が聞こえる。シーボルト邸跡に続いてシーボルト記念館。日本始めての医学のこと、植物のこと、動物のこと、日本地図のこと。今まで、書物のみで知っていたことが、実物を共なって秩序よく伝わってくる。シーボルトが日本を追放になってからも、外国から拙い日本語のラブレターを滝さんに送っていたこと、シーボルト、イネの日本始めての女医のこと…。頭の中はすっかりシーボルトになってしまっていた。
 また市電に乗って、今度は目的のグラバー園までたどり着けた。こちらは修学旅行生やらがいっぱい。その人々も登ってゆくうちには分散されて、幕末にひき込まれてゆく。
 幕末、外国人が日本にやってきて、いかに過ごしたか?の建物がひと山に点在し、日本と外国との係わり。まったく生活様式の異なる日本で、自国風な生活をしようとした外国人。私も、外国へ行って、外国人になった時、自国、すなわち日本風を守ろうとした気持ちなど織り混ぜて、思いは始めてに至る。 グラバー邸から長崎港を見渡す風景は素晴らしい。この風景故に、戦争時、スパイ容疑にまき込まれ、死んでゆかなければならなかったグラバー二世のこと。
 山を下って、日本最古木造ゴシック建築の大浦天主堂、オランダ坂を登って下り、出島へ。この何とも異質な人工島の中で、日本で始めてバトミントンやゴルフがなされていた。そういえば歩いていた時、ボーリング発祥の地、もあった。二十六聖人殉教の岬、異文化に死んでゆかなければならなかった人達。沢山の"始めて"があって、今の日本になってきたこと。そんな全部の“こと”も“思い”も見渡して稲佐山山頂にしばらく。

 
 

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