アルゼンチンつれづれ(238) 1998年09月号

王子辺り

 「東京に住む」についても、東京のどの辺に住むかによってすっかり様子が変ってくる。今まで私が住んだことがあるのは杉並区久我山、そこでは杉並区の学校に通っていた。田園調布なんて大威張りの地名で、何も面白がらずにいた時や、外国から帰って、はじめて自分の居場所とした洗足池あたり。どうということもなく住んできた。
 縁あって北区王子に住むことになり、予備知識が無いから地図を広げる。王子辺りには古い事も多く残っているから江戸時代の地図も広げる。江戸の地図の果てる所に王子稲荷神社があり、自分の位置はやっと確認出来る。
 東京の中をずっとずっと流れてきて、王子辺りだけを音無川と名を変え、隅田川に流れ入る石神井川。私の家の近くを隅田川が流れていることを知る。そして、隅田川の尾久橋と荒川の扇橋とを一度に渡ってしまう扇大橋があることを。江戸の地図では、隅田川の続きの上流が荒川になっているのに、秀吉の頃からの土地開発でみごとな荒川放水路が隅田川と平行するに至った。
 扇大橋を渡ってみたくて出掛けた。さすがに長い橋で歩いている人なんて見当たらない。車がびゅんびゅんゆくばかり。その辺りの隅田川はブロック塀みたいに囲まれて全然面白くないけれど、荒川は緑の土手が大きく、名前みたいではないのがおどろきだった。
 扇大橋を渡って少し足立区側にゆくと昔造りの蕎麦屋があり、静かで落着いた佇まいがまず良く、江戸前穴子の天ぷらやぜんまい、にしんの煮物を肴にお酒をいただいた後、手打の蕎麦も良いけれど、手打の細目の透き通るようなうどん、つゆをつけていただく。こんなおいしくさわやかなうどんは食べたことがなかった。楽しみはまだ終らない。デザートの「蕎麦まんじゅう」。出来たてのぬくもりでもって、ほのかに甘くやさしい。“何か”をめざして行動すると、おいしい物がついてくる。
 隅田川と荒川を船で巡る水上バスがあることを突き止めた。金、土、日曜だけの一日一便で予約が必要。梅雨の雨が降る日だった。両国を午後一時出発。乗務員は、船長をはじめ四人。けっこう大勢乗れそうな最新の窓ばかりの船なのに予約客は四人だけ、何だか申し訳けないようなことになった。
 いろいろな文学を思い起す浜町発着所にはすぐ着き、それから東京湾に出てゆく。レインボウブリッジの下を通り、有明、お台場、新木場、葛西臨海公園の水族館のところ。そしていよいよ荒川を逆のぼる。名前みたいに荒いのかな…と思っていたのは間違い。両岸の緑の土手にはゴミ一つ見当らない椅麗さ。 魚つりの小舟、葦が生えていて…。地下鉄東西線、新宿駅、総武線、京成押上線、京成本線、東武伊勢崎線、地下鉄千代田線…何と沢山の橋があり鉄橋があり。地方と東京をこんなにも結ばれている。
 隅田川と荒川をつなぐ岩淵水門を通り、隅田川の続きの細い運河、新河岸川を逆のぼり折り返し点の小豆沢。降りないでそのまま隅田川の名前の始まりへと進み、私の住んでいる辺り、浅草、有名な橋をくぐりくぐりて両国の出発点へ帰着した。五時間半乗っていた。
 船は快適だったし、どこかしこ一瞬のまばたきも、もったいなかった。
 両国は相撲の町、ちゃんこの町。ちゃんこ鍋とは大ざっぱなイメージだけれどそうではない。「鳥義」にゆく。海の物、野の物、山の物皆一つの鍋に入ってかもしだす味が何ともいい。中でも鳥のつくねがこたえられない。お酒は江戸の地酒。
 なんと沢山のことが私に入り込んだ一日だった。

 
 

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