アルゼンチンつれづれ(247) 1999年06月号

「地球にてU」

○茅葺の郷には茅葺の寺ありて茅葺鐘楼より梵鐘の音
○山槻の今年の延びの止まりたり山槻の葉に朝日あまねし
 これはもう趣向である。作者ははじめ意識していただろうが、やがて、自然に口をついて出るようになったものに違いない。この種の表現は厳密に数えれば相当な数に上るのではないだろうか。
 以上の歌は目立つ特徴をもつのであるが、この歌集の真骨頂は何といってもオーソドックスな写生による歌である。実は作者は父君が創刊、主宰されていた「三河アララギ」の同人であり、安定した表現はその確かな指導者の下で磨かれたものだと思われる。また口語的発想も含めて作者が信奉されているらしい土屋文明の影響でもあるだろう。
○夏草は枯れてゆきたり関東平野折々ぶらりと赤烏瓜
○透き通るみずだこ刺身は抹茶塩をつけて食ふなり能登半島は
○白々と山法師の花の浮かびゐて常より遅き帰りを知りぬ
○雲を突き抜けゆきたり雲の上にまだ浮雲のありて流るる
○ただ白き雲あり汚れ雲もあり雲の下には地球のありて
○風のなき日に来りて風を知るみな傾けり立山の木々
○目を閉じて巻向山の残像の続きゐるまま眠りかゆかむ
○屋根と屋根ともつと向ふの屋根の間にビワの熟れたる色の揺れをり
○藪柑子の花は青き実となりて花なき庭となりをりしばし
○朝の光に五重の塔の影長し透彫りあり水煙の影
 右の歌は観念では決して歌えないものである。四、五首目の空の歌も然りであり、「汚れ雲」という表現なども力ある人の表現といえよう。六首目「風のなき」の一首にも工夫の跡と確かな眼とがみられる。最後の歌も水煙の影に透彫りを見ている点、ものを見るということの訓練の成果を思わせる。
 ただ、これは全くの偶然だが右の抄出歌十首中八首に助詞の「て」がある。これがこの集中にこの割り合であるならば決して利点にはならないだろう。
 しかし、作者はそんなことに全く気を使わない。歌集全体に満ちている自在な表現はとりもなおさず作者の精神のありようのあらわれであろうと思う。久々にのびやかな読後感に誘われたことを特記したいと思う。
 北浦宏様「みづうみ」主
 三河アララギは三河地方を根拠としてその歴史は古い。御津磯夫氏は赤彦、茂吉を経て文明に至りついた真からのアララギ信奉者である。その尊父の写生道を忠実に受け継いでいるので、作品の表現は手堅く無駄口はない。ある作品はありのままを放り出し説明とも取れるが、再び読むと和ましい境地に誘われる。詠み口は男性的とも思われるが、著者のもつ女性の直感力は不思議の魅力をかもし出している。
○ロッキーの真白き雪山続きつつ明り見え始め山脈終る
○それぞれの明りをともし人間は地球を見下ろす地球の夜を
 巻頭の作品をあげてみたが、いづれも外地の特色を良く取らえている。特に心に残った作品を数首あげる。
○地球の四万キロの旅を終へ訪ねむとするは病床六尺
○アルゼンチンに生れし吾子と今日食ふは江戸のモンジャといふ鉄板焼
                                  つづく

 
 

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