アルゼンチンつれづれ(263) 2000年10月号

南国の果物

 何時でも、何処でも、何に対しても、「スケッチが出来るかな」、と機会をうかがってしまうこのごろ。
 ベトナムでは、熱帯の果物、その果の生っている木を描きたかった。
 日本へも、最近はかなりの種類の異国の果物、花々が輸入され、店頭で見知るようにはなっていても、どのように食べ、扱ったら…迷う。
 南国の果物の原地にきて、路傍に、マーケットに、山積みされ、売られ、その国の日常を、何とかスケッチブックに止めたい。
 治安が悪い、何やらあぶない、慣れていない徽菌類だって新しい餌食を狙っているにちがいない…道に座り込んで描いたりするのは勇気が要りすぎる。
 せめて、果実を買って、雨期の土砂降りの間をねらってホテルの部屋で描くより仕方がない。
 天秤棒の両方の籠に、大きな異様なフルーツ、ナンカ(ジャックフルーツ)。味見をしている人に便乗して、ひと切れいただく。酸味のない、ねっとり甘い。どんなに欲しても、こんな大きなフルーツをホテルに持ち込むわけにはゆかない。このフルーツが生っている木を描きたい。ナンカの木には出遇えなかったけれど、ホー・チ・ミン廟の広い庭に、ホテルで一粒一粒描いた龍眼の生っている木をみつけた。
 南国のフルーツの中でも、一際奇妙なのはドラゴンフルーツ。何と大胆なピンク色であること、ぶ厚いピンクの皮をむくと、乳白色の実に、黒ゴマが点在するように種。外皮のおもむきではない味は、さっぱりと上品だった。きっと、サボテン系のような気がする。この木?にも出遇えなかったが、描きたい情熱にかられる。
 続く続く田んぼの所々に蓮沼があり、花咲き、ハチス部分が大きく成長していた。そのハチスだけを大きな笊に山盛りにして、その横でハチスの解体もし、丸い実を取り出している。そんな作業の様子も是非描きたかったのに。
 蓮の葉に包まれたチャーハン風の料理の中に、蓮の実が入っていた。仏様に供えるごはんをいただくような気持ちだった。そういえば、仏壇の仏様や鎌倉の大仏様に近い顔をした人をよくみかけた。仏教の伝来をまのあたりにした思い。そんな人々の顔も描きたい。陶器の村の陶器が出来てゆく様子、村の風景。山積みされる巨大な染付の植木鉢。何とかスケッチ出来ないものかと心を尽したけれど、案内していただく時間とか、さっき降ったどろんどろんのぬかるみの上になりたっている事情とか、本当にままならない。歯痒さばかりが残る。
 滞在中、未知の味は、しっかり自分の舌でたしかめた。本当に沢山の未知があった。
 今まで外国で暮して、どこの国の何でも食べてきた私も、日本にしばらくいる間に鈍ったらしい。体調をこわし、思い残すこと大きくベトナム探訪は終ってしまった。
 生きるという原点の強さと、日本が失ってしまった物への郷愁と…そんな風に感じたことが絵になったら、と思う。身も心も強くなって、またしっかりと出掛けてゆきたい。
 香港。ここにもアルゼンチン時代の友人がいて、それから後と、これから、の話しは尽きない。やはりまた行かなくては、と思う。
 沢山の島、海が活用されている風景、海から陸が始まるところからすでに生え立つとてつもなく背高いビル群。そのビル群が夜の明りを放つさま。いくら驚いても足りない。そんな驚きを描いてみたい。ひとつ旅をしてまた欲深くなった。

 
 

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