アルゼンチンつれづれ(278) 2002年新年号

司法試験

 切実に、謙虚に、願う。その私の願いを“神様”が叶えて下さったことは、今だない。だからもうずっと以前から“神様”と願わないようにしている。
 子供達にも『身勝手に、一方的に神様にお願いをするなどとは厚かまし過ぎる。自分が努力したことしか叶うものではない』。そんな会話をして育ててきた。
 玉由が司法試験をうけ、その結果がでるのは、三ヶ月先ということだった。神頼みだけはせず、自分の心の範囲で最大限に“受かる”ことを願っていた。
その反面、何回も何年間も司法試験に挑戦したけれど、とうとうあきらめた…などということも聞こえてくる。非常に難しいことであるらしいことが日々切々と思われる。
「受からなかったら、何を言ってなぐさめようか、励まそうか」。
 玉由の住むアメリカでは、国家一律ではなく、弁護活動をしようとする州の試験を受けなくてはいけないのだそうだ。数ある州の中でニューヨーク州が一番難しいのだとか。
「競争率の小さい州で、まず受けたらどうか」という私の安易な発想は無視され「ニューヨークで働きたいし、一番難しいのがいい」と玉由。
司法試験が終った時、「わりと簡単に出来た気がする」と言っていたその言葉にすがっているけれど、結果が出るまではわからない三ヶ月間だった。
東京の地下鉄に乗っている時、めったに鳴らない私の携帯電話がなった。地下鉄ということでうまく繋がらなく、目的地に着くまでに、何度も携帯電話は鳴った。結果が悪くて、玉由が一緒に悲しむべく掛けてきているのか、とも連想をする。地下鉄から地上に上ってきたところで、やっとニューヨークとうまく繋がった。
「受かったよ。もう弁護士だよ、喜んでいいよ。これでもう試験を受けなくても良いのだ。お母さんの思いどうりになったね」。
外国で生まれることになった子供達に、私は、本当に沢山のことを強いてきた。私に欠けること、苦労をしたこと…あまりに沢山を埋め尽さなければいけなかった子供達。
 そんな私の育て方に、玉由は二歳頃から反抗、十八歳まで、玉由が自ら「反抗は終り」と言いだすまで続いた。玉由と私の葛藤を見て育った由野は反抗期のないまま今に至る。 「お母さん、由野が一番喜んでくれて!」と玉由。玉由も私も、どんなに由野に甘えてきたことか、改めて思う。
 司法試験に受かると今度は、今までに通った学校や、法律を学んだ大学、先生方、学友、アルバイト先、仕事先…大勢の人達から、「この人が弁護士として弁護活動をしても良い人格である」。という主旨の手紙をいただかないといけないのだそうだ。そんなに沢山の人達が、玉由のために保障をして下さるのだろうか、と私の心配をよそに、「大丈夫、皆から書いて下さるという返事をいただいているから」。
 高校からアメリカの生活をはじめ、沢山の友人達にめぐまれた。そしていま、ニューヨークで、日本語もスペイン語もマイノリティの痛みも、女性が働らく利も不利もふまえ、正義感にあふれた、弁護士というイメージからおそろしくかけ離れている弁護士玉由のはじまり。

 
 

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