アルゼンチンつれづれ(283) 2002年06月号

茂吉・ヴァン・ゴッホ

 日本の国の、訪ねゆく先々に、偉人、先人の残された跡、言葉、作品…知っていたり、偶然であったり、出合う。
 その時代、その人物、その作品を思い、心を徐々に大きくし、そして今を生きる。
 『斎藤茂吉歌集』を、いつも携えている。訪ねたことのある地での短歌は、知らない所の短歌より、ずっと多くのことが感じられ、「百聞は一見」、大変な意味を持つ言葉であることを知る。
 船に乗って、地球の海をゆき、外国というに出合う。通過した国は異にするけれど、地球を半周する船旅の経験者、「洋行漫吟」は親しみを持ち、茂吉の行かれたパリの地名もかなり「同じ」に歩きまわったことがあるから、今度は南フランスを。
 時代は異にするけれど、南フランス、古代ローマ帝国のプロヴィンチアであったというプロバンスヘ行くのに、「茂吉歌集」を持ってゆくうれしさ。
 スペインに居た時、古代ローマの遺跡、導水橋が立派に残っており、石を積みあげた城壁も幾つも。ヨーロッパの成り立ちを認識したのだけれど、フランスもやはり、古代ローマの遺跡がいたる所に。
 そういった古代に直接手をふれ、よじのぼり「何があったであろう」ことを忍び、その間を、現代に近づき、茂吉歌集の「遍歴」。
○ヴァン・ゴョホつひの命ををはりたる狭き家に来て昼の肉食す
 ゴッホが制作をしていた時のまま、そのままが残し保たれ、描かれた草木も、その時のまま季節をめぐりつなぎ、さすがこの辺りは糸杉が高くそびえ、糸杉に近寄り、ゴッホの部屋の窓から、彼の絵と同じ空気が見える。茂吉は、ここで「肉食す」。
 精神科医師の茂吉には、大変に興味深かったであろう、ゴッホの終の場所。
 ゴッホの悲しい筆跡。ひと筆ひと筆を見守った。
○木の下に梨果が一ぱい落ちて居り仏蘭西田園のこの豊けさよ
 フランスというと、パりであり、ファッションであり…との発想が高いけれど、どんな模様より美しく、どこまでも続くかの整地された農地。偉大な、豊かな農業国。
 果物の木は、ちょうど花が終った頃だった。サクランボ、洋梨、桃、杏、プルーン、オリーブ、ブドウ…。
 洋梨が、すべてのフルーツが豊かに稔るだろう。
 ブドウ畑けは、背低く剪定され、ぼこぼこの丸太状態の冬木から、やっと若葉が二三枚でてきたところ。ブドウ畑けは起伏をもって地平線まで。このブドウ畑けの稔りの頃、紅葉の頃。また来て見たい。大地に座り込んでこんな風景を描きたい。
 いつもいただくフランスワインの味も、何倍にも増して味わえる。
○あたたかきNice(ニイス)の浜に寄する浪園(なみその)のなかなる花にしひびく
 ヨーロッパをめざし、留学、洋行…まずマルセーユの港に着いた昔。そんな文人、画家を思いながら、私は、フランスパンにアイオリソースをのせ、マルセーユの海の魚のスープを注ぐ、ブイヤベースをいただいた。きっと昔の人も同じ味だったにちがいない。
 「モナコ、モンテカルロ、カジノを参観す」私も同じように。
 そして、ニースの浜で、手をさしのべ海水温度を計り、白い細い線が入る独特の石ころを幾つも拾った。

 
 

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