ことのはスケッチ(404) 2012年(平成24年)8月

『根岸病院の秋』

 母校の小学校は、「この小さな御津から世界に広がってゆきなさい…」と主旨する父の作詞した校歌でした。
 忠実に、地球上の一番遠い国へ行ってみました。そして長い間、アルゼンチンに住んでいて、ある日気付いたのです。
 父と母から、こんなに遠く…一人で死でゆくのはいやだ。父母のところへ帰ろう。
 目指して帰った父母の家は、父母は亡くなり、長男でなくては居てはいけない,ということになっていて駄目。自分一人、石のお墓の下に居ることは絶対にいや。
 それで、自分のお墓をネット上につくることを考えついた。何もかも持ち込んでホームぺージ、私のお墓を現在制作途中ですが、ここに、根岸病院、石田秀一様よりメッセージが届きました。
 『根岸病院は創立133年を迎えるにあたり、先人達の資料や情報を集めております。その中で、今泉忠男先生の描かれた「根岸病院の秋」という油彩画(1925年)の所在をを探しております。情報をお持ちでしたらお教え頂きたいと思い連絡をいたしました』
 父の絵のこと!父との日々に戻れたような!そして、メールは往復しました。
 『根岸病院の秋」が現存とのこと、非常に嬉しく思います。当院の役員(お父様が描かれた頃の院長松村清吾の孫)にも報告しましたところ、とても喜んでおりました。役員自ら赴き、拝見させていただいて、写真を撮らせていただけないだろうか、と申しております』
 医学生だった父が研修先の根岸病院の油絵を描いたことは、父から聞いていました。
 『お父様の三河アララギ短歌誌を続けておられることも拝見し、驚いております。続けることの大切さ、改めて感じました。斉藤茂吉先生(斉藤病院)も現在の根岸病院の近く、お孫さんの代になって続いておられる)のお孫さんとも深い付き合いをさせて頂いているので、こうしてメールさせていただいていると何とも不思議な感覚になってしまいます。』
 「引馬野ににほふ榛原入り乱り衣にほはせ旅のしるしに」。父が、三河の御津と所在地を考証した万葉集の歌です。
 小学校の学芸会の広い講堂で、担任の先生がオルガンを弾かれ、その横で私が、“歌会始め”みたいに謡いました。そんなことがあったなあ。
 その「引馬野」を実証されるということで斉藤茂吉先生が、父母の家に来られました。
 雨の降る日ではありましたけれど、「ここが万葉の引馬野であることを実証され」、母の手料理でお持て成しさせていただいたこと。折にふれ、子守歌と聞きながら育ちました。
 今泉医院は現在閉院されましたが、父の時のままになっています。斉藤茂吉先生、土屋文明先生…アララギの歌人の訪ねて下さった家です。
 診療室の壁に、父自身が掛けたそのままになっていた埃まみれの『根岸病院の秋』の油彩画の前に、根岸病院の松村英裕様と共に佇みました。
 父が90年前に放った光りは、今改めて私に届き、沢山のことを思い起すはずみになりました。この光を抱き、父と母と三河アララギを守ってゆきます。

 
 

 


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