ことのはスケッチ(411) 2013年(平成25年)3月

『卓球部』

 小学校の講堂の隅っこに卓球台があり、校庭も講堂も鍵など掛かっていなかったから、“夕焼け小焼け”までの毎日の遊び場だった。
 鉄棒、竹登り、雲梯…大好きだった。人間としての基礎体力を養なったのだと思う。
 その流れで、中学でも卓球をしていた。高校でも、一応卓球部員だった。男子ばかりが多い高校で、男子、女子話をするということもなく、誰が卓球部に居たのかもおぼろ。学内の中心からうーんと外れた兵舎の残骸の床は隙間、ボコボコ、コーチという存在は記憶に無く、ただ自己流に過していた。
 そんな卓球経験を終え、時は長ーく過ぎた。ニューヨークに立寄った時「ピンポン出来るところあるよ」と連れていってくれたのが、言うなれば「ピンポン・バー」だった。
 お酒飲みつつの真夜中のピンポンはとっても楽しかった。
 日本に帰り、高校の同期の集まりがあった時、「ピンポンする者この指とまれ! 」と言ってみたら、「やってあげるよ」「卓球部だったんだ」「見には行くよ」と反応があったから場所を探した。
 東京都の各々の区で、体育館、スポーツセンター…と立派な施設があり、区民が優先されるけれど、誰でも利用出来る時間帯もある。
 関東在住でも、都心から離れたところに住んでいる友が一ヶ所に集まるという現実。
 真中あたり港区スポーツセンターから始めてみることにする。
 さすが私の世代、遅刻などする人はいない。「ピンポンはしないけれど参加する」「会社の机がピンポン台だったので、仕事を終えるとピンポンをした」と頼もしい友。「四十年振り」は二人。「大阪から東京への出張に合わせた」という友。
 とにかく始められた。
「すぐ息がきれた」「足がわなわな」「汗びっしより」…。こんなに動けなくなってしまっていたことにびっくりする。でも「ピンポンだー」と嬉しかった。練習後、反省会と称して飲んだビールのうまかったこと。
 「これから、ずーっと続けよう」と決った。体調の悪い友がいれば、その地域でピンポンが出来る処を探し、美しい花が咲けば、そこを通り…斯くして「さすらいの卓球部」。
 練習後のひと休みには、歌を歌うこともある。昔歌った歌、長くなってしまった卒業後の経験を踏まえた歌。文部省唱歌の、今では使われない日本語の美しさにひたり…。
 日本に居なかった年月は埋まり、大切なことが甦ってくる。
 身体の自由が増し、跳び上がっても、跳ね上っても大丈夫。現在の選手と同じラケットを求め、靴だって卓球用というのがある。オレンジ色の球も、今では目に楽と思う、台にうんと近付いて、攻めの体勢も身につけよう。もうすぐ、今のスタイルの卓球に割り込んでいるだろう。

 
 

 


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