ことのはスケッチ(441) 2015年(平成27年)9月

『天田愚庵』G 年譜

☆明治三十四年(一九○一年)愚庵四十八歳

  • 正岡子規の『仰臥漫録』
    「青高ニ愚庵芭蕉と蘇鉄哉」「青麹。愚庵に逗留」と。
    青高ヘ子規と同じく根岸に住し親交があった。
  • 臥床
    世を棄てし我にはあれど病む時は猶父母ぞ恋しかりけり
    若草の嬬もあらねば門か どべ辺栖す む媼我がため今朝もかしぎつ
    我がために炊かば炊げさされ石よなげて炊げ゙歯にさやるがに

  • ☆明治三十五年(一九○二年)愚庵四十九歳。
  • 九月十九日、歌友正岡子規逝く。行年三十六歳。
    糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

    愚庵詠
    如何して君はますらん荒金の地つちさけて照る今日のあつさを
    夏の日はあふきてたのめ深草の野辺より送る風の恵みを
    吹風を衣の袖につつみかね団扇にこめて送るはかりそ
  • 中秋、竹生島に月を賞す。
  • 桜井一久に誘われ西下、広島、高浜を経て三十一日、道後温泉に渡り、茶金旅館に着。

  • ☆明治三十六年(一九○三年)愚庵五十歳。
  • 東京大相撲の黄金時代。梅ヶ谷と常隆山が東西の大関と対立。
  • 愚庵は京都から上京し、陸羯南宅に宿り、十日間連続回向院に通い陸羯南手配の桟敷席より大相撲を観賞した。
  • (呼び出し奴が呼びだすところ)
    東(ひんがし)は梅ヶ谷かよ西は誰(た)そ常陸山とぞ名乗あげたる
  • (土俵にのぼるところ)
    大山はゆるぎ出(いで)たり西東関(せき)の大関ゆるぎいでたる
  • (「古事記」の天照大神が須佐之男命の暴挙に備えたところ)
    堅庭(かたには)を泡雪の如向股(ことむかもも)に蹶(くえ)はららかす雄猛(おたけび)のよさ
  • (仕切るところ)
    潔(いさぎ)よくしきれ牡夫(ますらお)立つ時に待てとはいふなまちはするとも
  • (観客の熱狂)
    梅とよび常陸とさけび百千人(ももちびと)声をかぎりにきほひとよもす
    天地も今や砕けむ増荒雄(ますらお)がいかづちのこときほひすまへば
  • (「古事記」に日日並(かかな)べて、夜には九ここよ夜日には十日)
    大相撲日には九日(ここのか)見てはあれど常陸山には勝つものなし
  • (漢熟語をそのまま歌に)
    虎とうち竜とをどりて壮士がすまふを見れば汗握るなり
  • (事実)
    此(この)相撲ただ一つがひ見むためと西の都ゆはるばろに来つ
  • (大相撲であったこと)
    突く手さす手見る目もあやに分かねども組みてはほぐれほぐれてはくみ
  • (常陸山の勝、強さを替える)
    東の関もなげたり常陸山天が下にはただひとりなり
  • 十一月、兄真武夫人同伴で来訪。洛中諸勝を誘引。
  • 十二月、法弟元策を相続人と定め、地所建物は藤原忠一郎に譲るなど資産配分を準備する。中川小十郎に遺産処分の決定を告ぐ。
  • 落合直文逝く。行年四十一歳。
  • ライト兄弟初飛行。
  • 発卯感懐(父母生別三十六年)
    ちちのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白く成りにき
    かぞふれば我も老いたり母そはの母の年より四年(よとせ)も老いたり
  • 静かな悟りのうちに
    うたかたの泡と此世を知ればこそいやこひまされ亡人のあと
    経もあり仏もあれば我もありこころのおくに亡人もあり
  • 沙羅双樹花開
    生れては死ぬ理(ことわり)を示すちふ沙羅の木の花美しきかも
    美しき沙羅の木の花朝咲きてその夕には散りにけるかも
    朝咲きて夕には散る沙羅の木の花の盛りを見れば悲しも
  • 一茎九花蘭
    此蘭の花は春咲く咲く花は一本毎にここの花咲く
  •  
     

     


    Copyright (C)2002 Yuri Imaizumi All Rights Reserved. このページに掲載されている短歌・絵画の無断掲載を禁じます。