ことのはスケッチ(334)
横浜港

めくらへび、アルゼンチンへ出掛けていった。長く住んでいた。日本に帰ってきた。
この頃、自分が生きた歳月の半分以上をアルゼンチンで過した、という計算ができた。
「まさか、そんなに長く行っていたなんて」。「どうして、アルゼンチンへ行ってしまったのだろうか」。
日本から一番遠い、という冒険をしたかったし、そんなに遠くて知らない所へ行ったら、自分がどのように生きてゆくだろうか、知りたかった。


浦島太郎さんを思ってみる。竜宮というのは外国のことだと思う。
私も、亀みたいな船に乗って45日間、お伽噺のような時を、はるばる行った。
新しい出来事に吾を忘れ,月日は過ぎ,吾にかえった。そうだ日本へ帰ろう。


玉手箱なんぞ開けなくても、開けたほどのことは充分に私に起こった。
見知る人達が健在のうちに帰ったから良かったけれど、親しく育った海や川や山や…姿をかえていた。
外国で何の後ろ盾もなく生きてこられた、ということは、私に大きなものをもたらせてくれたけれど、半生をかけるほどのことをしていたのかな…とも考えてしまう。
日本を美しく美しく美化してしまった心と、日本についての大きな空白をもって帰ってきたことは、ただ、びっくりしているより仕方が無いことばかりだった。
日本にたいして一番甘えたかった部分は、一番大きく拒否され、「私は日本人なのだから、ここに居るよりしかたがない」と諦める。悟る。


私自身は、とにかく遠くへは行ってみるけれど、そのうち地球の丸みでもって、くるりと廻って帰ってくるだろう…くらいの軽い発想だったのだけれど、すごい田舎に、どうしたことかものすごく進歩的で、ハイカラ?で、でも田舎に住まざるを得なかった父と母とは、私が「外国へ行く」と言ったときの喜びよう…。
父は「もう会えないかもしれない」と彼の宝を私に手渡し、母は、私が地球上のどこに居ても、一生生きてゆかれるだろう程の品々をそろえた。
一生、帰って来なくてもよいように仕度されてしまった荷物を積んで、横浜港から出掛けて行ったのだった。


このごろ、輸入業務をはじめてから、書類をもって横浜港あたり、税関辺り、よくでかける。とにかく仕事のことのみ、急いで行く、急いで帰る。
横浜港から船出した日のことなど、すっかり忘れていたのだつたけれど、
 「そうだ!あそこはどうなっただろうか」と思い出す日があった。
暑い暑い、もうこれ以上には暑くはなれないのではないか、と思うま昼間、港辺りをうろうろする。大昔の出来事になってしまった出発の場を探す。
「どうしても、ここではない」。「絶対、こんな所ではなかった」。でも、あきらめて「ここだ!」。
泣かないで出掛けていったのだったけれど、今、ここを探し当て、あのときと同じ水平線が見えたとき、泣きだしそうになった。「泣く程のことはあったなあ」。自分で自分をみていた。


横浜港あたり、ただに美しく憧れ状態のスペースにかわってしまっていて、こんなに麗しい所だったら、あのころの私だって、「遠くへ行こう」なんて思い付かなかったに違いない。
変わってしまったから、昔のことはやめよう。今になろう。

 

 
 

 


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