ことのはスケッチ(331) 2006年(平成18年)7月

『選歌』

「三河アララギ」の主幹が亡くなり、会員、編集部員それぞれが、それぞれの心に「師の教え」をもちつつ、忠実に守っているつもりで編集、発行を続けてきた。

人の心は、皆異なるのだから、「師の教え」の解釈も、各々の都合に良く、美化し、風化し…。「信じた教え」は、各々大切に心し、今の状況ということに順応、進化、対応…してゆかなければ、と思うのです。

編集部の一員私、会員から寄せられる月々の歌稿の「選歌」をさせていただいている。

私ごとき未熟さで、会員の短歌の選をするということは、よく考えたら辞退しか無いのですが、未来をかけて、私の精一杯をここに尽くしてみようと思いたちました。

私の理想の心情は、短歌の場合も、人間として生きている心構えも、同じです。

○他人の迷惑にならないように。

○他人に自分を押し付けない。

○浮わつかないで、しっかり大地を感じながら。

○羞恥心を持ち続ける。

○生活も心も、慎ましく。おとなしく。

この心情で、選歌させていただいています。会員全員の歌を、十五首の欄に掲載したく、歌数の少ない投稿には、無理の選をしてしまいます。三河アララギ誌は会員全員一人一人の十五首のスペースがあります。このスペースをレベル向上させるのは、会員一人一人の責任です。

寄せられた歌を、直すということについて。
一人のカリスマが、その人好みに「会員の歌を直す」ということは過去≠ノなりました。
歌を心掛ける人は、自分の言葉で、自分のリズムで、自分の心を、歌うということが今≠ニ思います。
他人の言葉の、他人のリズムの他人の動作を、どんなに優秀な人でも、直せる訳はありません。
もし、他人が直して、歌としてのレベルがあがったとしても、作者の心と離れてしまったのでは、何の意味ももちません。
編集部には、文法に長けた先生方がおられます。短歌として文法の誤りは直していただけます。
私は、駒形≠ヨしばしば「どぜう」を食べにゆきます。その「どじょう」のことですが、短歌の場合には「どじやう」となり、鉄鍋の中、すなわち食べ物になっていると「どぜう」です。生きている「どじょう」は「どぜう」ではないのです。

では、「どじやう汁」はなぜ「どぜう汁」ではないのだろうか。生きたままの「どじょう」を鍋に入れる調理方法から「どじやう汁」となるのだそうです。
言葉が生れ育つ、人間に密着して、そして変化をしてゆく。
私達の短歌は「万葉集」を心しているのですが、万葉の時代と、ずっと年が過ぎた今と、すべてのことが大変な変化をしてしまっている。「人間の本質は変わらない」とは私には思えません。心も感覚も、表現する言葉も…、今を生きている私達が、万葉の時代の心になって歌える訳はない。
万葉集は学び、古典も学び、古今東西を学び…身体にどんどん仕舞っておく。沢山の蓄積は、同じ物を見ても、同じ言葉を使っても、大きな余韻を伴うものです。
沢山のことを知り、沢山の心と出会い、沢山の中の「ひとりの自分」を認識し、自分を慈しみ、自分を発揮した歌を目指して、一緒に歌ってゆきましょう。

 
 

 


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