ことのはスケッチ (350)
『年末年始』

とめどなく忙しい。もっとも自主的な忙しさが大半ではあるけれど。
失敗をしないよう日々、心を込めて仕事というをしている。
上手に一日が過ごせた日は、ほんとうにうれしい。
こんな毎日を断ち切って、「年末年始」という大行事をこなさなくてはいけない時が、またきてしまった。
この時期を、「セリーナさんに会いに行きたい」。
わかっていることだけれど、日本から一番遠い国、地球を半周してゆき、また半周して帰る。
一番はじめ、アルゼンチンへは、遠いから行きたかった。
住みはじめたアルゼンチンからは、「父と母とがいる日本」へ、子供として会いに帰ることは当然のことだった。
アルゼンチンで生まれた私の子供たちに、「私と同じ日本を」。祖父母と一緒に沢山のときを過ごして欲しかった。
だから、本当にせっせと日本に帰ってきた。
若さというのはすごい。重力や、気圧や・・・どんなことにも平気で立ち向かってゆけた。
この何年間か、飛行機に乗ることが嫌になった。
アルゼンチンでの最初のころを思い出し、息苦しくなる。血圧があがる。湿疹がでる。
どっとストレスが押し寄せ、もう、あんなことには耐えられない年になったのだと思う。
自分の発想として、悲しいとか、寂しいとか、具体的には思わないのだけれど、とめどなく涙が流れ続けた日々。
アルゼンチンに着いて半年間くらいは、ただ泣いていた。もう一人の自分が、涙って終わりにならないのだろうか・・・と思っていた。

そんな時、そこから私を探しだして下さったのが、たいへんなキャリアをもつセリーナさん。
言葉も、習慣も異にしたけれど、惜しみなく心が通った。戸籍調べみたいなことは、し合わなくても、出会ったときから信じ合えた。安心できた。
だんだん、セリーナさんと私と、性格や好みや人間としての基が似ていることが分かってきて、もっともっと好きになってゆくのだった。

セリーナさんは、アルゼンチンではじめてフィギュア・スケートをした人に違いないと思い当たる。
何しらず、私の子供たちに、アルゼンチンを代表するよう、フィギュア・スケートの練習をはじめたとき、セリーナさんは、セリーナさんのお父上が、セリーナさんを見守ったように、リンクサイドで練習を見守ってくださったのだった。
私のアトリエに、モデルさんに来てもらい、絵をクロッキーを描いていたときも、「なんて同じ様なことをするの!」とセリーナさんは、専属モデルがいて、油絵を描いていらしたことを知るのだった。
コルドバの一つの山の頂上の、セリーナさんの別荘で過ごした夏は、絵を描き、草々、木々の名前や植物学を教わり、馬に乗ってガウチョの暮らしに分け入り、“つくつく”という名前の玉虫のような、蛍のような、蛍の百倍も大きな光を放って、夜毎別荘の夜を飛んだ絶滅寸前の虫を一緒に。
みんなみんな教わった。アルゼンチンを教わった。
子供たちの記念樹も、この庭に大きくなっていることだろう。

セリーナ家のルーツは、スペインにあって、スペインの王様が、アルゼンチンを訪問されたり、国家的行事があると、第一級の正装をして、まず、私にみせて下さるのだった。

良家ということに甘えないで、アルゼンチントップのナースとして仕事をされるとともに、国を代表して世界の会議に出席された。私の子供たち、世界で仕事をしてゆくということを、知らず知らずのうちに教えていただくのだった。

今は介護が必要になってしまわれたセリーナさん、会いにゆく。

 
 

 


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