ことのはスケッチ (339) 2007年3月

『女ということ』

五十二年ぶり、「こんなに大きな数字は、とても自分ごとではない。」と思ったのに、当事者であると指摘された。
小学校の同窓会があるという。
もう誰もわからないだろうから出席はやめようか、とか。もうすぐ死んでゆくのだから一生を顧みるのに、会っておいたほうがいいかもしれない、とか。

外国の生活から日本に帰ってきてより、父母の短歌会、三河アララギに参加し、したがって古里にしばしばかえる。
古里の駅から、父母の家までの道のり、「ここに聡子ちゃんの家があった」「啓子ちゃんの家」「宣子さんの家」「節ちゃんの家」「すみちゃん」「久子ちゃん」「美穂ちゃん」「公ちゃん」…一緒に遊んだ友達は、古里から誰ひとり居なくなった。
女の子はみんな「嫁」に行ってしまった、という。
そして、「嫁」にきた人たちに代わり、知らない町になっていた。
女であるということで、自分の生まれた家ではない他家のモノになる。苗字が変わり、生まれ育った資質は無と化し…。

男女同権を言いだすよりもっとずっと昔、「幼年」誌を読んでいた頃の母は、男児が前面におおきく、女児が後ろに小さい表紙絵に怒り、出版社宛、抗議文を送ったそうだ。そのことは、すぐ受け入れられ、男女児は同じ大きさの表紙になったそうだ。
そんな母ですら、結婚ということに、自分を無くし、思いも無くし、完全な裏方人生のまま、こんな歌を残して亡くなった。

○ 男女児を同じ大きさにと幼年誌絵の抗議独りしたりき
○ 思ふままうたひしものの一つなくただ裏方のわが五十年

アルゼンチンへ行く手続きということで、何ヶ月間ほどは「高山」だったけれど、アルゼンチンの永住権は、「今泉」「高山」両方が私の苗字になった。生まれた名前が私から消える、ということはなくなった。
だから、生まれたままの全部は、私から消えることはなかった。自分の苗字を無くさなかったことが、アルゼンチンが私にくれた一番大きなことだと思っている。

でも、不用意に、とても下手に生きてしまったから、私の不本意を子供達に繰り返させたくはない。
外国で生まれた私の二人の女の赤ちゃんを「守らなければ、守らなければ」と途方にくれた時より、母が私に諭してくれたように、「自分の力で、自分の好きな生き方を…」と、言い続けてきた。男とか女とか言う以前に、一人の人間として、自分の意志で、自分の実力で。
今、子供達に、一人で生きてゆかれるベースが出来、これからは自由自在、きっと素晴らしい人に出会えるだろう。「子供達を守りきれた」と思う。
私が受け継いだ母のDNAを「私の代で、少し良くした」と報告できる。

五十年という歳月は、とても怖かったけれど、同窓の皆に会えた瞬間、昔呼んでいたとおりの名前で呼び合い、昔のままが、昔のまま。
でも、女の子達は、みんな知らない苗字になってしまっていることに抵抗があった。哀しくなってしまった。

 
 

 


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