ことのはスケッチ(293) 2003年6月

染井吉野

華やかにも寂しく、桜の時。桜にまつわる自分史など蘇りくるこのごろ。
どんよりと花曇に落ち着き。少し寒く花風に吹かれ。外国にまで花便りをし。花の様子を、花語りはつきず。咲きはじめた花に、ぼたん雪がたまゆら。花冷えに心身ふるえ。闇に不思議な花明かり。花吹雪のなかに両手をひろげ。花嵐にまたの咲く日を。どの花言葉も見逃すまい。
紀州藩出身の徳川吉宗八代将軍は、王子の飛鳥山に千二百七十本の桜の苗木を植えられ、江戸の名所と花見を奨励された。花の下での花見弁当、花見酒。余興。この花見スタイルは今日に至る。

 

今を栄える染井吉野、江戸末期に江戸染井村の植木屋がつくりだした。かって染井村であった辺りは、現在、私の歩いて暮らす範囲なのだけれど、染井の住所は消滅してしまった。
現在、染井の名前が残っているのは、染井神社、染井墓地、染井交番、染井商店街、染井橋。桜といえば[染井吉野]と大きな名前なのに、染井の現状は寂しい。
染井の墓地には、貫名のお墓があり、義母とたびたびお参りをした。二葉亭四迷、高村光太郎、千恵子・・・著名な名前に多く出合う墓地。染井のお墓参りのついでにちかくの雑司が谷霊園の義母の里へ縁組したジョン万次郎の孫(糸子)の縁で、身内と思うジョン万次郎のお墓にもお参りするのが常だった。
墓地一面を桜色にして積もった花びらが、風に巻き上げられ、花の竜巻が立つ、ここにかしこに。この辺りで、名花染井吉野が生まれたことに思いを馳せる。


 

東京地方の染井吉野の開花日を予測する標準木を、靖国神社へみにゆく。
開花という日だったから、幾花か咲き始めた花の縁で、「教育勅語の口語文訳」を見つけた。
「...子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合いそして、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と、安全に奉仕しなければなしません。...」
これほど簡潔かつ良い教えを、暗唱している私のほんの少し前の人達を思う。


 

靖国神社から少し歩くと千鳥ヶ淵。皇居という最高のお膳立てのもと、それはそれは極限に美しい桜。自分から離れすぎの寂しさを思うほど。
道程として神田の古本市に紛れ込む。さすが桜の本が目につき、焦げ色深い、西行の大正拾五年十月十五日出版の「山家集」をみつけた。ポロポロと分解してしまいそうな本の「桜の歌」を探す。八百年ちかい昔に咲いた桜の歌。今咲く桜をみな見たい。
六義園の桜も、黄門さまが作られた小石川後楽園の桜も、善福寺も、...そして、とうとう隅田川の屋形舟にも乗ってしまった。
植村公子さんの発案で、植村直巳の冒険をサポートした人、そこから広がった人、一つ屋形舟に集まり、[桜酒]を飲み、熱々の江戸前天ぷらが一つ一ついただく速度で運ばれてくる。
ゆらゆら揺れながらこんなことをして、そして、時々障子を開け、堤の桜を見やるのでした。居なくなってしまった植村直巳を、せめて桜のもとにと悲しんだ。

   

 


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