アルゼンチンつれづれ(11) 1979年09月号

ラ・プラタ河

 アルゼンチンの独立記念日。七月九日より二週間、小学生の冬休みが始まりました。何処で冬休みを過すかということが暫くの間、人々の話題でした。先入感を与えず、冬休みにしたい事、行きたい所を我子に尋ねたところ、体操もバレーも絶対に休みたくないという子供達の意見が勝ち、船でラプラタ河を溯って、パラグヮイまで行くという私のアルゼンチンに着いて以来の憧れの旅も、親しくしている友人のコルトバの別荘で、馬に乗ったりして過そうという招きも、アンデス山脈の麓ヘスキーに行くという毎年の行動も、全部あきらめました。
 それに、もう一つ大事なことは、日常のアルゼンチンの学校へ通っている生活では、宿題、習い事に運動を加えたら、もう大急ぎといいながら食事と入浴の時間しか残りません。日本語は大切だと言いつつも毎日は時間切れで過ぎて行ってしまいます。冬休みには漢字が多くなっている日本の子供達と同じレベルまでに日本語をもってゆかなくてはなりません。好む好まないに関係なく、日本の血を持って外国に生まれてしまった私の子供に外国で育つことを総べての面でプラスにしてやりたいとの思いは切実です。特に、アルゼンチン国籍を持っていても、アルゼンチン人と同じ生活をしていても、日本の顔を見れば人々は日本人と見ます。その顔のごとく、日本人としても通用するように育たなくてはなりせんから、一人何役も兼ねることになり定められた時間の内で、定めた目的に向ってまっしぐらです。それでも冬休みは年齢に応じた冬休みらしいことを少しは盛り込んでやりたい。お月様にも、昔話にも欠かせない餅搗を見せたい、との願いが叶って、郊外に住む日本の人が餅搗きしましょうと誘って下さいました。日本から送ったり、ブラジルから買って来たりとお餅が大好きな子供達も、どのようにして、それが出来上るのかは知りません。日本で育った私ですら、目が醒めると、湯気がいっぱいの台所から、ペッタンの音が聞えてきて……という程度で餅搗の記憶は終りです。まさかアルゼンチンでそんなこと実現出来るとも思っていなかったのに搗きたてのお餅が食べられるとなると、日本から持ってきたきな粉に砂糖を混ぜ、胡桃をつぶし、きざみねぎに醤油、あんこも作り、奇特な日本人が作って売りに来る納豆も加え、用意が出来ました。気にしていた天気が道中だんだん晴れてゆくのがなんとも心楽しく、初めてゆく目的の家を探し当てました。
 パラグヮイに住んでいた日本人が作ったという臼は、まわりまわってアルゼンチンのブエノスアイレス郊外の芝庭に置かれ、それもどこやらからの借り物だということでしたけれど、「わー大きな金槌」と子供達が叫ぶ杵もかなり使い減っています。外国へ移り住んだ日本の人がこの臼と杵から日本を偲んだことが思われます。 
 庭の隅の方で丸太を燃しつつの蒸籠から湯気が上って、「初めまして」のあいさつもそこそこに、六十歳くらいのおばあちゃんと呼ばれている婦人の手反えしの腰に力が入って、私の前の世代の日本の女のかっこう良さを見ました。そして我家同様、アルゼンチンの学校へ通い、モニカという名前がつく日本の顔をした女の子と我子は仲良しになり、アルゼンチンの遊びはスペイン語で、日本の遊びは日本語で遊びました。
 餅がねばって子供の力では杵が持ち上らないことを経験し搗上った餅を丸める時、ほのかに暖かく、まろやかなやさしさを両手で知りました。アルゼンチンの日向での餅搗は、滑稽なような淋しさも漂わせ、何日間も大人同志の日本語を、話さない生活をしている私に、久しぶりの日本調でした。

 
 

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