アルゼンチンつれづれ(33) 1981年07月号

クリオージャ

 まだ夜が残っている簿暗い朝、子供達を学校へ送り出す。丁度飲みかげんのスープを食卓に揃えて「お腹すいた!」の学校帰りを迎える。尤も基本的なリズムも身体に乗り、平凡になりつつ過ぎているこの頃。
 雨また雨、湿度、「やっと晴れた」とまぶしく見上げた太陽も、ちょっと目を放した隙に、厚い雲に被われて、かなり激しい雨が降り始める。蒸し暑くなったり、肌寒かったり「リューマチが痛む」「足が浮腫む」「洗濯物が乾かない」等々、湿度による人々の苦情があいさつとなる時期。
 降り溜った雨による水害、何百万トンの減収穫「野菜がまた高くなるなあ」
 学校も何処にも風邪引きの人がいっぱい。流行性肝臓炎に気をつけるようにというニュースが気にかかる。完全に読みこなせないスペイン語の新聞からも、世界中に恐しいことが充満していることを知る。「清々しさが欲しい!」
 一八〇〇年代。天災の少ない拡大な大地、豊かな資源のアルゼンチン獲得に世界の目が向いて、一八〇六年からの英国軍によるブエノスアイレス市占領、それを良しとしないブエノスアイレスの人々の英軍撃退。このことによって愛国心が芽ばえたクリオージョ(中南米で生まれた人)コロネリオニ・サーベドラ、マヌエル・ぺルグラーノ等の指導の下、支配国スペインより派遣の副王を辞職させて、独立革命を宣言した一八一〇年五月二十五日。アルゼンチンの学校でまず教えられる日付けを記念しての祝日、学校では式があります。学童は、アイロンの掛かった制服の、心臓の側にコラソンというアルゼンチン国旗色のリボンをつけて。アルゼンチンの行事にうとい私は前夜、去年のリボンがあったはずと大童で探し出して、私の二人のクリオージャ(女性詞)の外見をととのえました。父兄もこの式には出席します。俄作りではありますが、生徒達によるこの日付に至った歴史劇がありました。今までアルゼンチンの歴史に興昧を持たず、見よう見まねでここまで来てしまった私に、ひときわ黒い髪が目だつ私の子供達が、アルゼンチンの歴史上の人物になって出てくる劇によって目覚めた思いがしました。
子供が学校へ行きだす、習ったことを話題にする、子供達の友達が遊びにくる、行く、その父母との会話、父兄会、先生との交流。日本の人が日本の中で知り合ってゆくのと同じように、私も時には自分が日本人の顔をしていることを忘れながら、何故思いどうりのことが言えないのだろうと不思議な気がしてみたり、言わなければならない、話したい。面倒になりがちなスペイン語での附き合を、子供達に助けられながら、否応無しに過してゆく。唯単に親、兄弟、親戚と同じ様に生きてみるのはやめようという思い付きだけでアルゼンチンに住み付いて、大それた気持は無かったのに、気が付いてみると、私の子供達がアルゼンチンの教育を受け、アルゼンチンの友達の中、習慣、食物、全てアルゼンチン無しにはもう生きてゆかれない様子を見るにつけ。一八一六年アルゼンチン独立の英雄サン・マルティンもスペイン人の両親のもとアルゼンチンで生まれ、八歳からスペインで教育を受け、スペイン王室の軍隊で栄誉を得たにもかかわらず、生まれた国の自由の為に生涯をかけた。生まれた国というものの大切さにやっと気が付きました。「この国に嫌気がさした」などとはもう決して言えない。もっと確かなクリオージャの母親とならなければと思うのでした。

 
 

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