アルゼンチンつれづれ(44) 1982年06月号

フォークランド紛争

 桜の花びらが積って、若葉の木々の木洩れ日に色を増し、吹く風のままに、無限とも流れ続けるやさしい花弁を追いかけ、飛び跳ね「これが花吹雪って言うのね!」と蕾が見え始めた頃教えた言葉の真只中にいる私の子供達。目に写る総ての風景の中に桜が咲いているという初めての日本の姿。
 冬の間だけ日本に居るというこの何年来の日本滞在で、日本とは、すなわち冬という観念が出来上ってしまっていたアルゼンチン生まれの子供達が驚きの声を発する「葉牡丹ってあんなに伸び上って、花まで咲くんだね。」「年中キャベツ型で、同じ所に同じ色をしているんだとばかり思っていたのに」
 そこに木があることにも気付かなかった程の冬枯れだった街路樹も、ある日、点々と緑が見え始め、近寄って見ればそれはもう小さな公孫樹の形だったり、プラタナスも白樺もたちまちのうちにその葉を通る風が見える。 物を見る目も心も、今より十六年若かった時点で、アルゼンチンへ渡って以来、二人の子供の四つの目も加えて六つの目で見る春。土の上で、草木の中で遊び育った昔のことが一気に帰ってきて、子供達に私の日本人ぶりを発揮する。
 今まで、ハカランダが咲き、水辺にセイボを咲かせ、アルゼンチンのアンデス山脈よりのリオネグロ県への旅の名残り、リンゴがなっている木、豊かなオレンジの国のオレンジ畑、馬に乗ったガウチョ……そんな画題であった由野の絵に、雪雲が雪を降らせ、沈丁花が咲き、桜吹雪も加わって、彼女の生活の変化が印されてゆく。
 アルゼンチンの目で物を見、スペイン語で考え、算数もスペイン語で解く二人の子供と暮しながら、時に春の風物もうつろと過ぎ去ってゆく、私のやりきれなさ。涙が零れそうになって、あわてて遠くを見てしまう。アルゼンチンとイギリスの紛争。戦の気配も感じないで、子供達の留学と日本に留まることに決め、今東京で思うこと。たった一人も知人がなかったアルゼンチンで、少しづつ私の心に広がっていった友達、もう家族だと思う人までいる。アルゼンチンが困れば、さっさと逃げてくるのだろうか、アルゼンチンで死んでもいいと思うだろうか、国と国の問題に、個人ではどうしようもない所にたっての個人の生きざまを思う。
 「玉由は、戦争だから逃げてきたんじゃない!でも友達はそう思うかもしれない」と心を傷め、私がスペイン語の新聞を拾い読んでいたように、日本に来て毎日勉強した成果でもって、日本語の新聞のアルゼンチンの大きな記事を読もうとする子供達。「今まで『アルゼンチンから来た』と言っても、皆地球上の何処だかわからなくて、説明するのに疲れて、テープに吹き込みたいと思ったくらいなのに、これで世界中の人がアルゼンチンってどこにあるかわかるよ。だけど戦争で有名になるなんて残念だなあ」と子供達の会話。 自分の身体にどんな小さな傷でも恐いのに痛いのに、どうして平気で人を傷つけることができるのか、自分が死にたくはないのに、どうして他人を殺すことが出来るのか。“神様”戦争をやめさせて下さい。
 言葉でも態度でも、何もなし得ない。十六年間アルゼンチンに住んで、これからも住みたいと思う私達に今出来ること、日本の血でもってアルゼンチンに生まれ、アルゼンチンを代表出来るようなスポーツウーマンになることに向かって、地味なトレーニングを今日も重ねる。

 
 

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