アルゼンチンつれづれ(45) 1982年07月号

香港へ

 アルゼンチンに住み始めて、知り合った当時は、幼かった知人の子供たちが、アサードで、パーティで、合う度に背がのびて、今や戦争適齢期となっている。知っている限りの友達を思い、その時々の会話をも浮び、「ファビアンが! アンドレスが! 死んだらいやだ」と悲鳴に近い声をあげる玉由と由野。
 アルゼンチンで生まれ、教育を受けた私の子供達は当然、片寄った見方をする。アルゼンチンの相手国であるイギリスには遠過ぎるから今は行けない、イギリスをほんのちょっとでも知る為に、イギリス直轄の植民地香港へ行ってみよう!
 思い立ったら実行は早い。次の日には、先程まで掃除機をかけていた常のジーンズのそのままで、小さな袋を一つだけ提げて、一日の練習を終えた夕方だから、子供達も気楽に付いてきて、成田より香港行の夜の飛行機に乗りました。
 外はまったくの闇、四時間の飛行機の中で取り急ぎ買ってきた本に香港というあまりにも有名で、私にとっては未知、日本以外の初めてのアジア、の予備知識を得る。
 今までの、子供達の父親のお仕着せのままに行く旅と違い、私が行こうと決めて、一人で子供を連れて出てきた今回、今から行く所の地理も歴史も語ってやらなければならない。学校で英語に係わった年数はかなり長くそして悩まされ続けはしたけど、まともに一言も喋れはしない。非国際的な私でも、スペイン語生活にて、英語も同じようなものだ、という開き直りを得て、自分の枕でなくては眠れないという時期が過去にはあった人間とは思われない平静さでもって、英語と中国語が使われている国へ行く。
 日本、アルゼンチン間を十数回往復して、その間に立ち寄った国々は沢山、そしてアルゼンチンの目を持つ子供達が「こんな外国は初めてだ。」と香港の奇妙な印象を言う。
 「お母さんは、初めて来た国で、どうしてそんなに平気で何処へでも行けるの?」と後に従う子供達が不思議がるけれど、中国文化で出来上っている日本の日本人としては、看板の漢字など、声に出しては読めないけれどだいたいの意味はわかるのだから。
 中国の古典舞踊を見ながらでの夕食の時、隣のテーブルの我家と同じ様な構成で、イギリスから来た家族と親しくなり、ショーよりも、玉由は、同じ年代のイギリスの女の子と話をすることに興味を示し、「イギリスの人達だって恐くないじゃない、とても良い子だよ」「エリザベスと玉由と今、友達になってその友達の友達のと繋がってゆけば世界中が友達だよ、友達同志殺し合うことはないじゃない」思っているようなイギリスっぽさのなかった香港で、玉由が頭にこびりついていた紛争についての考えを自身で経験した言葉で言いました。
 どの国へ行っても、日本の物をたべるよう努力する子供達の父親は、セーヌ河を見下ろしながら、子供達に焼鳥を食べさせました。日本に来て「お母さん! 日本にもフランス料理があるのね」と焼鳥を見て由野が大声をあげました。その失敗の上塗りのように「イギリスってジャスミン茶を飲んで、中華料理ばかり食べる国なんだね」との観察は由野です。
 紛争も、日々のトレーニングのありかたにも、ちょっと角度を変えて見る為にやってきて、巨大な、凄まじいばかりに色が混り合った香港の夜景を見ながら、三人で日本とアルゼンチンを沢山思いました。

 
 

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