アルゼンチンつれづれ(46) 1982年08月号

インターナショナルスクール

 「ユノォ。ュ!」白新しく、外国を思わせる建物の窓が開いて、先日で終ったのだけれど、テレビ漫画「不思議な島のフローネ」にでてきていたタムタムみたいな黒人の男の子が、通学二日目の由野を遠く見つけて手を降る。「ケニアから来たんだって」
 私の子供達に日本で探し当てた学校は、多数の生徒が、もう始まった三ヶ月間の夏休みを利用して、祖父母や親戚のある母国へ帰って行って、少数の生徒による「家庭教師で勉強しているみたい」という、インターナショナルスクールのサマースクールから始めました。その少数の生徒の中からも「ネパールの子もいるよ、アメリカもイギリスも中国、韓国、ブラジル、ペルー……」数々の国の名があがる。学校から帰るなり、世界地図を広げて新しい友達の母国を探す。今まで知ってはいても心に深くは残らなかった国のことも、友を得て、ぐんと近づき、知りたいことが増す。広げた地図のついでに、南極にいる植村さんの所も探し、世界一周ヨットレースに出かけていったタダさんは今どの辺かな。南極もサンドイッチ諸島へも行った子供達の父親の足跡、ニカラグヮから一時帰国の友、外務省の近々ペルーへ補任してゆく友、チリーから国際結婚で日本に来た友、モスクヮへ出張がありそうな友と、身近な人が地球を駆け巡って……。
 学校での授業は英語ですけれど、日本語による日本を知る授業もあって、「東北新幹線の通る県はどこだった?」「原爆の落ちた長崎は九州だね」日本国の形すら朧であったアルゼンチン生れの子供達にも、やがて日本地図が活躍し始めた。
 「友達は皆三ヶ国語が解るんだよ。学校が英語で、日本にいるから日本語も上手で、その他に、各々の母国語でしょ」
 「英英辞典がなくちゃ、今日の宿題が出来ないんだけど」
 ロレナやマリッサからアルゼンチン便りがとどき、思いはスペイン語になるひととき、 絞り染、合気道、リコーダー。家ではとても経験させてやれないことも、学校の教科となれば調達に忙しい。地球儀が引っ繰り返ったような毎日が始まって、学齢期の子供を学校にやれなかった六ヶ月間の思いが今、一気に蘇る。
 スケートと体操用具だけが入った二つのスーツケースを提げて、さて何処に落着くことになるのだろうか、とアルゼンチンを発ってからの私の表には現わせない心配、焦り。
 スペイン語が母国語である子供達に適した学校が思うにまかせなかったこと。今まで日本語の教科書で勉強をしてこなかった子を、思い余って日本の義務教育の中に入れてはいけない! アルゼンチンでの金メダルが無とばかりに落ちこぼれることに決っているのだから。世界の中で、ささやかであってかまわない、何かの役にたって欲しいと願って育ててきた子供達を、その道となるべき方向に向けてやらなければ。
 学齢期の子供が一人残らず学校へ行く時間に、子供を連れ歩く私への人々の不信の目。 英語の問題に英語で答えるインターナショナルスクールの試験に、英語が不十分だと落ちてしまったこと。アルゼンチンスペイン語は後進の言葉とばかりに無視されて。
 東京都の厚い電話帳で、我子に適した学校をと探していた日。
 アルゼンチンへ帰ってしまえば簡単だと思っていたことも。
 「今アルゼンチンへ帰ったら、玉由の目指す人生には行き当りない」という彼女の考えに励まされて、今、軽やかに、笑顔の場所に巡り会えた。

 
 

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