アルゼンチンつれづれ(130) 1989年09月号

私の母

 何よりも怖がっていた日本からの国際電語のベルが鳴ってしまった。母の命が、心もとないことは充分に知っていた。だけど私の母に限って…この期に及んでも、母への甘えはとてつもなく大きく…。
もっとも身近な人が居なくなってしまう、こんなに大きく重い出来事も、平然とのり越えてゆかなければいけないんですね、人間って。
 枕をギュッと抱きしめ、声を忍ばせて泣く由野。「お母さん!死んでしまうってどういうことなのよ!わからないよ!わからないよ。」と叫んでいる玉由。私の自制出来ない神経はゴウゴウと涙を流した。
 そして、気付くと玉由が狂ったみたいに地球上各所の電語番号をまわしまくって父親を探していた。心を共有出来る人が誰も居ないロスアンゼルスで、私達三人では持ちこたえられないこの重さを、父親に支えてもらいたくて。
 スペインから、たちまち飛んできた父親に子供達をあずけ、私は全身母の子供となって帰ってきた古里で、私の幼い、拙い涙を振り切るように、シャンと姿勢を正し“人間とはこう生きるものですよ”という立派な方の見本みたいな思い出話し、となってしまっていた母。
 母の六人の子供の中の五番目の三女、そのうえ多分にものが悪かった私とはいえ、自分の方を向いてもらいたくて…でも、身の程ということを、まず悟らされての私の生い立ちでした。
 現在、私と私の子供達がしているような甘っちょろい親子関係なんかでなく、大勢の人の為の、大きな存在だった母を、遠くの方から憧れて見ていたものでした。
 自分の置かれた位置への抵抗、やけっぱちみたいで、日本から最も遠い国、アルゼンチンへ行き、こうすれば、少しは私のこと思ってくれるかな…。もうこれ以上遠くはない所より父母を思うのは、私に合っている気がしてました。
 自分の子供達については、甘やかせられる限りを尽し、手をかけ、心をかけ…この方法が子供達にとって究極であったかどうか、私の母に対する羨望をうめつくしたかどうか…。
 「由利に負けちゃいられない。」と短歌の数がぐっと増した母、私は、母には勝てっこないからグズを決め込み、適当で楽をしましたが世界から父母を恋する短歌を歌いました。
 働き、尽くし、全てのことをキッチリと決めあげ、身も心も精いっぱいだった母を、労り助けてあげることもないまま、ただただ何の役にもたたない部分で思い続けることだけが私の母への全てでした。
 でも、もう安心。年を取らない母、苦しまない母、母が身体でもって示した数々は、消えてゆかない形で私に入り込んでいるんだし、私の位牌となった母を、大勢分の1と遠慮がちに思わなくてもいい。
 兄弟姉妹が、それぞれの母を持ち、みんな一人じめに出来なかった寂しさを取り戻せばいい。
 私の部の母は、私と一緒に世界ジプシー生活をするのです。「これがどうなりましょう。」と母の生涯に出逢わなかったことばかりにとまどい、文句を言うでしょうことはわかっていますけれど、六十年間、どこにも行かないで、家の為の家の中に居た人を、さあ、世界に引っぱり出しますよ。

 
 

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