アルゼンチンつれづれ(131) 1989年10月号

父母を思い続ける

 長い外国生活をしていて、思い定めることは唯一つ、私の古里、私の父母。
 思いの中で豊かに甘え、厳しさもあり、父母のモラルから外れまいと心して、少しでも良いことを聞かせてあげたい…こんな風に心の中で会話する焦点が“無くなってしまったらどうしよう”と、そのことがとても怖かった。
 母が亡くなってからの日々、驚いたことに今まで、決して母が登場しなかったような、岩っぽく砂っぽい風景にも、いとも気軽に笑顔を見せてくれる。私が見る物、すること、何にでも参加してくれる。以前よりもっと世話をやいて私を見張っていてくれる。このまま、ずっと母と共にいられることを知る。親離れなんて出来ない。親と子という生き物の法則に、オリジナルな自分の心を織り混ぜて、死んでしまったらお終い、なんてものではなく、もっともっと“私の必要”になってくれていることを知るのです。
 そして、私の子供達も、私が母に思うような“必要”を思うようになるのでしょうか。 時代、食物、習慣、国…が違ってゆけば、人間の心というものも変化してゆくものでしょうが、いつか、私の子供達の、少しでも役にたてる“思い出”になってあげられるために、まず今、巾の広い人間にならなければ…と、またまた母が教えてゆきました。
 「お母さん、短歌作ろうよ、書き留めるから何か言って!」という私に、「それどころじゃない。」となかば怒った、全身短歌の母が!!本当に本当に、どうしようもない苦しさということに心が裂けた。「子供達に、こんなのでなくてよかった。」と一人で苦しさを引き受け……その母の生涯の部屋で、母の蒲団で、母の位置で寝泊ってみて“小さかった時、ここに寝ていた”と思いあたった。
六人兄弟姉妹のうちの下の方の三人が、三チビと呼ばれていたのだけれど、その三チビと父と母とが、タンスが置いてある八畳に寝る。大きな家の、いっぱい部屋があり、女中、看護婦、子守りに、祖父、祖母と目があったその当時、「どうして、あんなにギッシリになって寝ていたのだろうか?」
 母の枕元は私。母の右側が君義、左が邦良。そして、その寝室のガラス戸を叩きにくる急患に起こされ、寝始めといい、夜中といい、一晩に二度も三度も、往診があった医師の父。出かけた父を待つ母と私達。
 “夜中ぐっすり眠るということはない”ということを、物心つくと知った。
 “眠い疲れた”という言葉もなく、全身で町の人に対する父の惰熱とやさしさをも、物心つくと知っていた。
 崇高に子育てをしたかにみえる母だったけれど、あの時点では、盲目的に子供達を彼女の身体で覆うように、庇うように育てていたと、父母の天井を見ながら、幼児の時の記憶にかえった。
 母が亡くなったことで、どっさり“思い出”ということが蘇った。今、思い出しておかないと永遠に忘れ去ってしまうかもしれないようなことも、法事に集った叔父、叔母達、従兄弟、従姉妹、姉、兄、弟…との会語から私のものになってくる。「そうなのだ、こうして、こういう父母のもとで育ったのだ。」と。
 祖父、祖母、もっと先祖にまで思いは及び自分の存在ということを確かにする。
 懐かしさ、ありがたさ、やさしさ…私の持ち得る心の全てを尽くし、父母を思い続けるよ。

 
 

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