アルゼンチンつれづれ(132) 1989年11月号

父の家

 年月と共に老いてゆくことは仕方のないこと…そこまでは素直になれる。だけど、生真面目に、善の限りを尽し生きてきて“さあ、穏やかな、やさしさに包まれていて欲しい”とまわりが願う時になって、これ以上は無い苦しみが母に…。
 「どうして!!どうして!!」と私の涙は止めどなかった。そんな時でも私は、カリフォルニアの乾燥のもと、ヒョロ高い椰子の並木の景色の中で、涙を流していたにすぎなかったけれど、母にぴったり寄り添って一年余、寝ずの看病をしていた義姉。父にも、病む母にも、私達兄弟姉妹にも、唯一神の存在は、義姉だった。
 これから、私の一生をかけて、義姉への感謝の気持を表わしてゆくのだけれど、まず私の短い日本滞在での不充分を我慢し、ほんの細やかなひと時でも、義姉を義姉の時間に戻してあげたかった。
忌み明け、納骨の法要を終えると、もっともっと共に母を偲びたかった身近な人達も、各々の所へ帰ってゆき、我家に関しては、子供達の父親は、そのまま台湾へ仕事に向い、玉由は、田園調布の祖母に付添って東京へ。 義姉は、母の日常生活の限界に、取り敢えず駆けつけたまま、一度も帰れなかった久我山へ。
 母が駆け回って日々をこなした大きな家に出来上った言葉で、慰めなんか言い合わない父と私と由野が残った。
 荘然としてしまいそうな空気を破り、由野が悲鳴をあげる、外国産の血がめずらしかったのか、蚊達の由野への総攻撃。片足だけでも、二十何ヶ所の被害と数える由野は、赤ちゃんの時からコミカルな役を演じました。 朝、目覚めれば、おみおつけ用の取りたての大根や茄子が、台所の入口に置いてあり、「さあ、お昼にしようか」という頃には、ホッカホカのお芋が届き、夕食のもう一皿にとサラダを持って来て下さる人がいる。
 日本津々浦々“これがおいしい”といわれる物は、各々送って下さる方があり、「みんなあったかい人だ、やさしいんだ。」と由野がびっくりする。
 テックテック歩くのは、御手の物だから、私が過した頃とは変ってしまった所も多い田舎道を、「学校の往復に、細葉小僧食べたんだよ。」「ここでメダカやゲンゴロウつかまえた。」「掘り抜き井戸って言ってね、野菜を洗ったり、洗濯したり、井戸端会議をするの、皆孤独じゃないわけよ。」
芋畑、冬瓜、茄子、胡瓜…柿の実が葉と同じ色で小さくて…「昔はキーウィなどなかったけれど。」
 東京やアメリカの生活で、牛乳、卵、海の物が食べられなかった由野が、「おいしいねやさしい味がする。」と何でもかんでも喜ぶ。水も空気も。
 朝、「あばあちゃま、おはよう。」と仏壇を開け、お茶を運び、お参りする姿も様になり世界に向いて行ってしまう子供達を、必死で日本に引っ張り寄せている私には、私が父母の家で育った時の生活に、由野が入り込んだことは、とてもうれしかった。一つ一つの言葉を、子供達と同じ意昧で受け止め合いたい。
 「そう!お母さんはこうやって育った訳。」「おばあちゃまも忙しく、由野達も忙しく、なかなか逢ったり一緒に居られなかったけれど、おじいちゃまとおばあちゃまが日本に居ると思うと世界中から安心だったものね。」「由野もいつかこんな生活してみたい。」

 
 

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