アルゼンチンつれづれ(141) 1990年08月号

国の事情

 「世の中変った」。いつの世も、何処ででも誰でもが口にする言葉だけれど、今度アルゼンチンヘ行ってみて「変ってしまった」。 街の角々にあって華やぎを振り撤いていた花屋が姿を消してしまい、花を愛し、花を飾り、花束を贈り合った人達は何処へ行ってしまったの? そして、その花卉(かき)生産の人々は?アルゼンチンの花卉は、日系の人達が支えていました。
 その昔、日本国の口減らし政策の口車に乗ってしまってアルゼンチンヘ移り住んだ人達は、あまりにも遠い国へ着いてしまった現実と、飾られた言葉との大きなギャップの絶望感に耐え、長い年月忍そのものとなり、やっとやっと、ブエノスアイレスの街角に花を咲かせたのに、アルゼンチン国の政策は、豊かに食み、豊かに花を飾り、豊かに他国人を受け入れていた普通の人々の経済を痛めつけ、花どころではない生活へと追いやった。
 “この先益々悪くなるのではないか”の不安感をしっかりインプットした、新しい国への希望で世界各国からアルゼンチンヘやってきた人達の子孫は、今度は逆に若い世代を母国に送り返している。
 日系の人々も、口減らしに追われたことは今は昔。労働力を必要とする現在の日本の現状と算盤勘定で、若い一家の働ける者をどんどん日本へ出稼ぎに出し、残るはアルゼンチンの土にまみれて年を経た老人達。若者が居なくなった、耕されない畑の中の一軒家で、アルゼンチンの経済事情に悪化した治安に脅やかされる。
 私がアルゼンチンに着いた日、“アルゼンチンの若者グループの強盗が、日本人老夫婦を殺した”というニュースが流れていた。
 同じように日本国を離れ、未知の国でゼロから生きてきた者同士の感情に、私は大きく揺れた。誰にももってゆかれないこの怒りとも哀しみとも……。
 全て沈んでいっているのなら納得がゆくけれど、反面素晴らしいショッピングモールが幾つも出来、エレガントに着た人達が自国の“アウストラル”というお金の単位ではなく“アメリカドル”で買物をする。中産階級の多かったアルゼンチンは、今や有産と無産に益々分けられてゆく。
我が家の会社に関しては“子供達の生まれた国”“私達人生初めての仕事”というセンチメンタルに支えられ、幾多の競争会社が出来ては潰れてゆくのを傍目に、健在ではありますが、「アルゼンチンの会社があってうれしい」と玉由もが気にするほど、この会社を維持するのに“工夫”が要りました。そして“工夫”を続けてゆくでしょう。
ブラジルに着くと、やはり勤勉で技術を持った日系の人々が“ブラジルの経済事情にたえかねて、日本へ出稼ぎに行ってしまう”と新聞にも、人々の会話にも持ち切りでした。ブラジルは、アルゼンチンより日系人がずっとずっと多いし、その広がりは国を挙げての存在で、野菜、果物、花卉栽培に従事していた日系人が耕作地を放棄し、日本の円の力に吸い寄せられてゆく。そして、サンパウロ市民の食糧供給は日々狭められて……とか。
サンパウロからロスアンゼルスヘ帰る私が乗った飛行機は、終着が成田でしたから、日本へ働きに行く人達がぎっしりでした。警備員、工場、建設関係。女の人は、病院や養老院の付添。みんな各々自分のことを考えて、一番良い方法をとっているのだから、私などとやかく思い惑うのはやめよう。

 
 

Copyright (C)2002 Yuri Imaizumi All Rights Reserved. このページに掲載されている短歌・絵画の無断掲載を禁じます。