アルゼンチンつれづれ(167) 1992年10月号

父と癖三酔

 物心つく以前から「何なのだろう」と思わなかったほど、当然のこととして、巻紙に書かれた手紙を表装した額が仏間にかかっていた。時々見上げたりはしたけれど、読めなかったから、そのままになってしまっていた。 母が亡くなって、父に前より執着が出てきて、彼の著書「海浜独唱」十巻を一巻から読みかえしてみた。飛行機でアルゼンチンやブラジルに移動する時、また待ち時間に。
 五巻目の真ん中辺りまで読み進んだ時、ハッと気がついた。あの仏間の額は、岡本癖三酔からの父への手紙なのだった。
 日本に帰った時、父にこの額のことを尋ねると、それがきっかけとなって、癖三酔の話がほとばしりでてきた。
 父が慈恵医大を終え、引き続き東京三田の松山病院で研修勤務をしていた時、ただ「風が吹く」と言っては入院してきたという癖三酔と知り合った。もっとも、ベッドに横たわっていなけれぱならないような病人ではなかった癖三酔は、医局員や看護婦達を集めて句会を催したりしていた。この時、二人はお互いを感じ合ったようで、しばらくして、開業医を継ぐべく田舎に帰った父を追いかけ、連日の手紙交換となったようだった。
 「ちょっとおいで」という父に従ってゆくと、普段入ったこともない物置のタンスの中に、きれいに保管された俳画と俳句の書かれたハガキが、年代、日付け順にいっぱいあった。私は、そのまま坐り込んで、癖三酔の中に引き込まれてしまった。
 癖三酔は俳句と俳画のハガキ、父は短歌とスケッチのハガキでの交流が、癖三酔の命が終ってしまうまでの幾年間も、毎日続いた。 受け取った手紙より、きっと、もっと沢山書き送っただろう若い時の父の情熱を今、私は見たい。今現在残っているか、戦争で焼けてしまったか、どうなっているか皆目わからない。
 まず私は、父が書き送った先の東京の住所探しから始めた。もちろん戦前の住所なのだから、当然今とは違う。麻布区役所へ行って、調べてもらった。「深い樹木に覆われた大邸宅だった」と父の言う癖三酔邸は、現在、ビル、マンションの建ち並ぶ所だった。同住所のマンションに入って探したけれど、岡本姓はなかった。区役所では、血縁関係者以外には何も教えられないと門前払いで、私はまた外国に出かけてしまったりで、そのままになっていた。
 ある時、酒席で、出版社の社長と知り合った。彼が俳句を作るということから、癖三酔を話題にしたところ、「見せてください」ということになった。
 時長く箪笥に仕舞い込まれていた物を彼に見せたところ、「これは只者ではありませんね。正確な読みを書き出してみましょう」。 一筆書きのたいしたリズミカルな字は、私には読み取れない所が多かったから、父に解読を頼んだ。父を六十五年ほど前の日々にしばらく引きもどした。
 「何か行動を起すと、いろいろ出てくるものですよ。お父さんの方のハガキが見つかったら、両方を合わせて本にしたら素晴らしいですね」と彼は言った。「これは男同士の大ロマンです」とも。
 まだ、どうなってゆくかは、はっきり定まってはいないけれど、きっと何か動きだす。心楽しくしている。

 
 

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