アルゼンチンつれづれ(171) 1993年02月号

加古宗也氏

 アルゼンチンで生活を始めてしまって、アルゼンチンで知り合ってゆく人達に、日本のこと、すなわち、天皇制、宗教、政治……諸々の質問を受ける度に、日本人のはずの自分が、あまりにも日本を知らないことにびっくりした。外国へ移り住んだ一日本人として、外国の人に、正しく日本を知らせてゆく義務があるとは思いつつ、現実に追われての日々が過ぎに過ぎていった。
 今やっとあたりを見回すゆとりが出来て、差当り、九十歳の父の住む私の古里三河にせっせと帰るのだけれど、父に逢い、何も言わなくてもわかりあえるような安らぎに満足して、父の敷地内から出ようともしなかった。 三河で育ったとはいえ、家と学校を中心とした歩いてゆける範囲から外れ出るようなことはなかったし、電車通学をしていた高校生の頃も、電車の時間割りどおりに、家と学校を往復したにすぎない。点ほどの三河を過ごした。
 父の家の前の海からの取れたての魚や貝、海苔……と、家近い畑からの、まだ土がしっとりと黒く湿っているような野菜で育った。 以前、東京の鮨屋で、友人達に、「切り身にした鰈がはねて鍋からとびだしてしまうから、母が鍋の蓋を押えていてね、その鰈の身がしまって、それはそれはおいしかった」という話をしたら、「切り身がはねるものか」と、友人達は相手にもしてくれなかったけれど、それ以後、その鮨屋で、私が黙って坐っていても、その日の最高の仕入れを、心を込めてだしてくれるようになった。
 まだまだ私の生涯にわたって記憶してしまった味は数知れない。すべて三河湾が教えてくれた。
 まず三河を知りたい、と思いはじめていた時、「三河に素晴しい友人がいるから紹介しますよ」と、東京の友人が、私を私の知らない三河に連れ出してくださった。
 西尾市におられるその方にお目にかかるにあたり、蒲郡から名鉄蒲郡線……。電車の行き先からでは、方向もわからないほどのあやふやさ。
 「ここに坐っていれば西尾に着きます」と教えられた。海近く走る電車の窓からの景色がうるわしかった。私の範囲ではあるけれど、世界を見てきて、今、しみじみと声もなく三河にみとれてしまっていた。
 東京辺りではほほけてしまっていた薄が、三河ではまだしっかりと薄で、おだやかな気侯もしのばれる。
 まず立派な西尾駅。迎えてくださったのは、『三河新報』の社主かつ、三代目を受け継がれた俳句結社『若竹』主宰の加古宗也氏。 竜宮城へ紛れてしまったかのもてなしをいただき、「こんなすごい魚が三河湾にいたのですか」とまず私のバカを発揮しての初対面であった。三河湾の一番ひなびた私の育った辺りよりスケールの大きな魚達との出遇いだった。
そして、矢作川よりの湿度のもと、七百年もの長い伝統にはぐくまれた西尾のお茶は、これがお茶なのですねと何度もおかわりをしてしまうおいしさだった。
そのうえお菓子が、さりげなさの中に、たいした力を持っていて、またまた「こんなお菓子が欲しかったのです」と叫んでしまった。ここは三河。
村上鬼城氏筆になる襖、欄間のお座敷での出来事。

 
 

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