アルゼンチンつれづれ(173) 1993年04月号

台湾

 新幹線の窓の景色から、ずっと目を離さなかったアルゼンチンの人が、あやしいまでに雪の積った関ヶ原辺りを通りすぎ、さきほどの雪景色はどこへやら、晴天の京都に近付くと、ボソッと言った。「三時間、家がとぎれた所はなかったと。
見渡す限りの草原の国からやってきた目には、こんなに小さな家が続いているのは、大変な驚きだったようだ。
 古都の冬の名所旧跡は、人影もまばら。常緑樹の緑だけ。キュンと引締まった冷たい空気のもと、大きな、不思議な空間だった。
 急に細かい歴史を言ってみても仕方がないから、「三百年前の将軍の家、四百年前の建築物」……ここと思えばまたあちら、忍者?のごとく駆け巡り、おしゃべりな、大騒動のアルゼンチンの人が声もないほどに感動してくださって、「日本を見ていただく」という私の責任が果たせた気持になれた。
 中国のお正月明けとかで、どの飛行機もどの飛行機も満席という騒ぎの中を潜り抜け、アルゼンチンと日本の混成チーム?は台湾へ向けて……。
 日本でお箸を使い始めたアルゼンチンの人は、日本滞在中、頑固にもフォークやナイフを使わないで過ごした。
 つるつるのお箸のうえに、お料理に油がやまほど使ってある中国料理には苦労していたけれど、やはりお箸で通していた。いざとなれば、手づかみなんて方法もあったりして。 さすがに、アルゼンチンの人は胃袋が大きい。朝はお粥、お粥に添える諸々。お昼は飲茶風。夜は、青菜野菜に始まり、スープ、肉料理、鳥料理、海老、蟹料理、蒸し魚料理、麺、御飯類……といったフルコースに、老酒が一本、二本、三本……ビンの単位で消化され、すごいすごい。私も何気ない顔をして、こんなのに付き合い続けた。
 ビジネスについては、この前台湾に来た時まではすさまじかったのに、人件費の都合なのか、製造業がどんどん中国へ移っていっており、「まあ、香港へ行ってから」という雰囲気になっていた。
 旅をすると、行った先の国の人々が、どういった物をどんな風に食べ、どのような生活をしているのだろうという、人間の辺りが一番興味があり、だいたいにおいて“汚い”ということは理解していても、庶民の朝市場へ行く。
 台湾の市場や道で、めずらしい物、おいしい物、グロテスクな物をまわりの人達と同じように買って食べ、名前を教わり……今までのところ病気になったことはない。
“棘子”と字を書いて教わった青いプチリンゴのような果物は、カリカリと皮ごとかじって、甘からず酢っぱからず、とてもさわやか。一つのつもりが次々食べてしまって、梅系の種が幾つも残った。
 蓮霧という果物も、味は清々しく、淡い赤と緑のはかなげに混じった外皮の色合いがたまらなく良い。
 棘子も蓮霧も、今日か明日に腐ってしまうという様子でもないのに、日本に入って来てないのが残念だ。
 新しい味に出遇えるのは面白いけれど、生きたままの動物から汲んだ血や、皮をむかれ、なおかつくねっている蛇など見てしまうと、何ともつらく、なさけなく、“食べる”ということをひたすら考えてしまう。
 アルゼンチンの人は狩猟民族だから、こんなことではびくともしない。   つづく

 
 

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