アルゼンチンつれづれ(222) 1997年05月号

玉由の仕事

 「また咳をしているじゃないの」。ロサンゼルスの玉由と電話をしている間にも、私は何度も咳こんでしまって会話にならない。
 「咳が出だすと、なかなか治らないんだよね。涙が出て、鼻水も出て、頭が痛くなって、吐き気もして…。つい先日まで玉由もそうだったんだ。温かい飲み物に、レモンとハチミツをたっぷり入れて。神経をリラツクスさせるようにウイスキーもいいよ…。みんなあきらめてテレビでも見ているしかないね。とにかくビタミンCを沢山とって、家でゆったりしていなさい」と、国を隔ててまでも私に指図をしている。
 玉由は、日本から一番遠い国で生まれた日から、私の保護者みたいな存在だった。日本語を話す唯一の相手であり、不慣れな外国生活、玉由を育てるということも…皆玉由に相談して、彼女は、私の希望であり、救いだった。
 由野が『注文の多い赤ちゃん』として生まれ、ミルクの温度がちょっと違っても、ベッドの柵に手足がさわった程のことでも…。夜も昼もなく怒って泣きわめき、私は疲れ果てて『もうだめ』と由野育てを放棄すると、三歳程だった玉由が「玉由が育てる。だけどまだ小さくて出来ないことがあるから、お母さん手伝って下さい」と由野の親まで引き受けてしまった。
 その時の言葉どおり、今に至るまで気を配り続けてくれた。外国で日本人が生活してきたことも、言葉についても、我が家の存続にまで及んで、家中が玉由に庇われてきた。
 「このままではいけない」と、高校三年生で家を出てスイスの学校へ行った由野。私も「玉由を開放してあげなくては…」と日本に一人住むことにした。
 そして今、南米での家業の父親と、ニューヨーク住まいになった由野と、日本の私との、我が家の中心としてロサンゼルスで気配りをし続けている。
 『生まれた国アルゼンチンの何らかの役に立たせたい』という望みに向かって、玉由と私の共同作業だったフィギュアスケートが忙しくてなかなか学校のことが出来なかったけれど、一年おくれてとにかく大学を卒業した。「経済学を出たけれど、本当は弁護士になりたいんだ。続けて大学に行くよ」「次の大学が始まる九月まではアルバイトをするね」と、映画やテレビのエキストラなどしていたらしい。「不定期で、長時間かかり疲れるけど、いろいろな人に遇えておもしろい」と言っていたと思ったら、「日本のテレビのコマーシャルなんかで、アメリカの俳優とか風景が出てくるのあるでしょう。そういうのをほとんど作っている会社に入ったよ。日本の博報堂とか電通とか…からのことをしているの。日本語と英語を使って。玉由はどちらかというと英語の方の係りだけれど、日本からの電話なんかで敬語を使うから、日本語も上手になってきた。大学が始まるまでこのままやってみて、なにしろ法科はすごく勉強しなければならないからどういうことになるかわからないけれど、今はこの仕事が気に入っている」
 「アメリカでは、どんな仕事をするにも、とにかく経験が最優先されるから、働いた実績を作っておかないと良い仕事が出来ないのだ」という。
 「将来は、TAMAYU、カンパニーを作って、南米のこと、日本のこと、アメリカのこと…をまとめてゆくような仕事をするつもりなんだ。玉由の会社が出来たらお母さん手伝いに来てね」

 
 

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