アルゼンチンつれづれ(223) 1997年06月号

吉野吟行

 『吉野』とは、日本一の桜の名所。それはそれは素晴らしい所、と音に聞いて久しい。 「行きたい」「一目見たい」。桜の時期は、とても宿などとれるものではない、という混雑ぶりだそうだが、友人達の骨折りで、「桜は終わってしまったかもしれない」という時に吉野へ行かれることとなった。
 吉野とは、いったいどんな所なのだろうか。私の本棚にずっと治まったままになっている吉野関連の本を何冊か開いてみて驚いた。簡単に吉野なんて言ってはいられない。大変な所へ行くことになったものだ。
 ロサンゼルスに住んでいた頃、子供達も独立するし、私はこれから先どのように生きてゆけばよいのだろうか…と思い惑っていた時、日本の友人が送ってくれた本が、「大海人皇子の額田王との恋、鶴野讃良皇女と壬申の乱へ…」。日本のはじまりの大ロマンだった。
 「天智天皇崩御、大海人皇子が出家して吉野に籠られた」。アメリカで、見知らぬ吉野のことを活字から想像したものだった。そして、「私は日本人。もう日本に住もう…」と決めたのだった。
 大海人皇子の前にも、古人大兄皇子が出家して吉野に入られている。そしてもっと前、みずはの日本の始まり、天照大神の姉君の岡象女神が吉野は水の聖地、水神様と信仰厚くあがめられていた。水の配分を司る水分神社もあり、持統天皇が三十一回も行幸された吉野離宮も水に関わってのことかもしれない。万葉の吉野地方の歌に吉野川、すなわち水に関する歌が多い。肝心なのは水。
 万葉から離れても、後醍醐天皇陵があり、楠木正行のこと、義経と静御前、弁慶も加わり…。桜で吉野を見ると、豊太閤の花見、したがって千利休、細川幽斎…。
 そして、西行法師、芭蕉、本居宣長、蓮如、近松門左衛門…。土屋文明…。
 そして、やっと、三河アララギの現在進行作歌グループが皆の五感を総動員して、テクテクテクテク道草しつつ、とにかく歩いた。 万葉集を読んでいて、いつも思っていた。千年も昔のことを、今の言葉で読んで良いものだろうか。今の生活をしている心で、その頃の人の心を押しはかっても良いものだろうか。一番外側の言葉だけでは感じきれるものではないと思ったから、その頃の人達がどんな生活をして、どんな食物をどんな風に作って食べ、どんな時に、どんな服装をしていたのだろうか。染めは!。織は!。その頃の日本にどんな花が咲いたのだろうか。それぞれについての本が、机の上に乗りきれなくなって床にまで及んでいった。
 あまりにも長い年月の、幅の広いことごとをふくみ込んでいる吉野に、なかば茫然としたまま出掛けて行ったのだけれど…。どこまでも続くたおやかな山なみを眺め、その山の木々の間を歩み、足元に生える草々花々。鶯が鳴く、鳥がとぶ。雨が降る。風が吹く。雲が生まれる…。本当の吉野に行ったら、今までの重かったことが嘘のようにすっとんでいった。
 「素直に読めばいい」「素直に感じればいい」「素直に詠おう」
 吉野から東京に帰って、行く前に積みあげた本を片付けながらびっくりした。あんなに読んだつもりではあっても上の空だったことが、今は当然のことのように理解出来る。見渡した吉野の山々のように、私の心も沢山のことが受け入れられるような気がしてしまう。

 
 

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