アルゼンチンつれづれ(265) 2000年12月号

銀座

 銀座。沢山の思い出がある。信頼と憧れと親しみと哀しみと…。
 この一週間、毎日通った。一日中居た。有楽町駅で降り、数寄屋橋の交差点を渡ると、千疋屋。千疋屋といえばまず、その昔、母方の磯部農園の巨峰が納められていた。日本及世界超一流しか扱わない店なのだから、きっと日本一だったのでしょう。
 そして、時代がさがると、今は亡き瑠璃子姉との銀座通い。千疋屋フルーツパーラの窓際で"レモンシャーベット"を注文しましたっけ。
 瑠璃子姉は、私がアルゼンチンに行ってしまってからも、手紙や小包、日本の本をずっと送り続けてくれていた。本が届かなくなって、姉の脳腫瘍を知る。アルゼンチンで、どれだけ泣いたかわからない、泣いたからといって、何の助けも出来なかったことを思うとつらい。千疋屋の前を通るときは、いまでも泣いてしまう。
 四丁目の三越辺り。医学生だった父が、競馬場の控医師のアルバイトをし、新婚まもない母に、その当時のトップモード、つば広の帽子とドレスを贈ったそうだ。その装いで歩く母を、銀座をゆきかうモボ、モガが皆振り返った、とはいつもの父の自慢話だった。
 そしてずっと後、私の登場は、母のこだわりの銀座の店の洋服、ハンドバッグ、靴…を田舎の母に届け続けるのでした。
 その銀座通りを横切り、歌舞伎座の前へと至る。
 墨黒々の歌舞伎文字にみせられ、このところ私は江戸文字というを習っている。
 歌舞伎座の近くで展覧会をするにあたり、私は恐れもなく対抗して、ギャラリーの看板に黒く堂々の“絵展”を書いた。
 心ドキドキの歌舞伎座を通り過ぎると私の大きな江戸文字が見え、今回のギャラリーとなる。
 銀座を全部通り過ぎた端っことはいえ、父や母や瑠璃子姉の思い出の中に、父のこだわりであった絵を掲げることが出来た。
 そして、外国でいつもするように、せっかくいらして下さった方々に、少しでも長く、楽しく話が出来るように、アルゼンチンワインを一ダース、高山の父方がはじめたキリンビールも一ダース、その他飲物、ひと口サイズのサンドイッチ、ワインに合う料理あれこれのオープニングパーティ。
 アルゼンチンから日本へ帰ってきて知り合った友人達が、名刺ケースのままではなく、住所録に書かれたままでなく、大勢いらして下さった。
 十四点飾った絵は、十一点まで売られてゆくことになった。
 描いても描いても、家にしまっておくだけではなく、私以外の“目”に見てもらえることになったよろこびと勇気は大きかった。買って下さった方々に決してつまらない思いをさせてはならないと、次回への技術も感性も…努力しようという気持が湧いてくる。
 絵は、生活とか努力とか、見せなくて済ませたいものを、かなりの部分覆い隠してくれる。その辺で安心して制作出来るというところがある。
 短歌に思いが及ぶと、作り方によるのだけれど、自分が何をした、何処へ行った、何を思った、誰と知り合いだ…自分の全てを読者に知らせることになる。
 他人のことなどそんなに知りたいわけでもないのに知らざるを得ない。少し覆い隠す方向を探さなくてはいけないのではないか。隠されている未知の部分が魅力であり、皆言い尽してはもう何も面白くないのだから。

 
 

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