アルゼンチンつれづれ(269) 2001年04月号

裸婦

 物心つくと、物を書く、絵を描く、ということをするものだ、と思っていた。学校の授業以外に特別なことはしなかったけれど、とにかくそう思っていた。
 後に、ただ絵を描くのではなく、繊維について学ぼうと思いたち、その授業の一環に裸婦を油絵具で描くことがあった。その時、始めて裸婦をモデルにして絵を描く、ということをした。今から四十年くらい前のこと故、モデルの足は短かく、茶色ばかりを塗りたいような、とにかくみじめな気持になった。
 世の東西古今、限りなく続いている裸婦を描くということが、こんなにみじめな気持になるのはおかしい。何か食い違っているにちがいない。
 その当時、東京有楽町にあった日劇ミュージックホールというへ出掛けた。そこで輝やき透き通る美しさの裸婦に出逢い、描かなければいられない、沸き立つ思いを知った。
 その時の油絵の道具一式は、髭のおじいちゃんが買って下さった。おじいちゃんは、息子である私の父が医者になるよう、絵描きになることを禁じたけれど、私が絵を描こうとすることをよろこんでくれていた。
 繊維コンクールに入選したり、夜を徹して織った織物が美術館に飾られたり、このまま美術の中に入ってゆく、と自分でも思っていたのに、気が付くと、おじいちゃんの油絵道具もふくめ地球半周のアルゼンチンヘの引越しの船に乗っていた。
 アルゼンチンで、もちろん織物や絵を描くつもりになっていた、とはつもりで、生きゆくための仕事ということをしているうちに、たちまち何年か過ぎた。
 過ぎ去った年月に驚き、慌て、アルゼンチンのアトリエに裸婦デッサンに通う段取りをし、自宅にもアトリエを作り、モデルに来てもらい、一対一の特訓を自分に果したりした。
 それも束の間。私の考えは、子供達の教育を、小学校は生れた国アルゼンチンのスペイン語、中学は父母の日本の日本語、高校はアメリカで英語、大学はフランス語、と決めていたから、子供達の留学地、日本へ帰らなくてはいけない時期になっていた。
 また地球を半周する引越しをし、日本に落着くと、子供達が学校へ行って留守の間、わが家は、アトリエ。友人達、モデル…集い、デッサンをしていた。
 勉強会も軌道に乗ったか、と思う頃、若いモデルが、一週間ほどの入院で死んでしまった。あまりのショック、次のモデルを、という気持になれず中断をしているうちに、子供達のアメリカ英語留学の時がくる。あたふたとロサンゼルスヘ引越し。
 フリーウェイを突っ走り、幾つも山を越えて通うアトリエをみつけた。さすがアメリカ、多人種の性別こもごも、老も若きも、デブもヤセも…屈託のない、リラックスしたモデルに、新しい感覚を教わった。大きな勉強だった。
 そんな日も長くは続かないのが常。由野が次のフランス語のため、スイスヘと一人で発ってゆき、これにて私の子育て終了。もう独立をしなければいけない玉由をロサンゼルスに残し、私の母を亡くした父の近くへ、と日本に帰ってきた。
 今、やっと落着いて、手も足も長くなった日本のモデルに向ってはいるけれど、またどこかへ何かを探しに出掛けたくなってしまうだろう。

 
 

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