アルゼンチンつれづれ(91) 1986年05月号

日本留学中

 ギクシャクと、何か焦点の定まらないような気持のまま日が過ぎている。
 限りない前進を信じ疑わず、子供達を日本へ連れ帰ってもう四年。
 私は、いつも尺度を小錦関に含わせて考えるのだけれど、言葉も技も、一つのスポーツの最高位に近づいている彼も、日本へ来て四年とか。それにひきかえ、私の子供達の今一つパッと若いエネルギーを爆発させないでいることよ。
 良いか悪いか、訳も内情もわからないまま選んでしまった体操競技もフィギュアスケートも、二十歳以下の若さだけが勝負。“じっくり技を研く”などと呑気なことを言ってはいられない。“最短距離を!”と私が勝手なレールを敷き、準備万端整えすぎてしまった故でしょうか。道を間違えたレールだったのでしょうか。子供達は、そのレールの上で故障ばっかり起して立止まっています。自分で切り開いてゆくという逞しさ、子供らしい無鉄砲さとは無縁の人となりながら。
 遠く一人働く子供達の父親に「良い報告をしてあげたい」「良いこと一つも言ってあげられない」私の潜在に積ってゆく苛立ち。
 「こんなにしてやっているのに!いったい何をしているのか」「俺だけ犠牲になって」「オマエが子供をだめにした」と子供達の父親の私への苛立。久し振りに日本へ帰って来る彼に安らぎの場どころか、二つの奇立がぶつかり合う。何度も反省し、思い直し……それでも逢えば必ず喧嘩。
 子供が生まれる、ハイハイを始める、お雛様を飾る、離乳食を食べさせる……なんと希望に満ちみちた私達の喜びだったことでしょう。
 東洋人を一度も診たことがないというアルゼンチンのお医者様に、“日本人には、生まれた時蒙古斑がある”ことを辞書を持って説明し、女の子が生まれると、その場で耳朶に穴を明ける習慣には「女の子でも穴を開けないで」と頼んで生まれてきた私の赤ちゃん。日本から桁外れに遠い地、アルゼンチン住まいの日本の人達とは交わって暮らせなかった私の孤軍奮闘。初めて私の小さな小さな赤ちゃんに逢えた時「守ってあげなくては!」と切なく思いました。その初心をまだまだ貫いているのでしょうか。「お母さんのセーター着てゆくよ」と私の洋服も、玉由のも同じ大きさになってしまった今でも。
 私がアルゼンチンに着いた時、言葉がわからなくて淋しかったから、子供達には言葉の苦労を取り除いてあげるべく、スペイン語、日本語、英語と同時進行させ、アルゼンチンの小学校の先生から「かわいそうだから、もう少し大きくなってからにしたら」と注意されたことがありましたけれど、もちろんその意見は無視し現在に至り、三つの言葉を子供達にあげられたことを良かったと思っていました。だけど、今やっと、私が日本へ帰って日本語を話すのと、玉由と由野が日本で日本語を使う、ということは同じ次元ではなかったことに気付きました。言葉のみならず。 玉由は何とか彼女の性格で乗り切れたようですが“両親が日本人だから日本に付き合っている”という遠い位置から日本を見ている控え目な由野は、日本語を話すのにも、日本に対するのもやはり控えたところがあり、日本式体操には馴染みきれなかったのだと思います。アルゼンチンで育った子達に、日本式を押し付けたのを疑問に思わなかった私。 「お母さん、玉由は“だめ”なんかじゃないからね」という玉由にはげまされ、「由野も“だめ”」なんかに絶対にしないから。

 
 

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