アルゼンチンつれづれ(142) 1990年09月号

台湾へゆく

 LAの夜中の二時、丁度寝ついた身体に、「ゴメン、ゴメン」が口癖の台湾事務所の青年からの電話。台湾からは、午前二時が都合がいいらしい。私が寝ている時も、働いている国があることを認識しつつ、慣れっことはいえ地球の時差に引っ掻き回される生活。
 台湾での仕事の量も増えてきて、従って、“午前二時”の回数も増し、夜中に電話が鳴ることは、私はかまわないとしても、彼、台湾の青年に“夜中に電話を掛けている”ことを認識してもらわなければならない。まことに小さな動機ではあるけれど、たちまち台湾行きの飛行機に乗った。
声のみ知って、姿は未知の青年と空港で逢うのだけれど“白シャツ、黒ズボン、メガネをかけて並の背丈”と電話で自己紹介した。 “それじゃ皆と同じで絶対わからないから、迎えに来なくてよい”と言ったのに…。
 台湾の空港に降りたつと、墨黒々と巨大立派な“高山由利様”の字を持つ青年がいた。まったく、えらいことをしてくれる。その紙を早々に仕舞い、「車を取ってきます」と走り去った青年に、私はうろたえた。“どんな顔していたっけ?”
 独学で勉強した、という日本語で話してくれる彼に甘え、日本語で仕事が出来るのは本当にありがたいけれど、時々、何を言っているのか分らなくなると、漢字を書いてお互い理解をし合った。
 日本の学校教育という中にいた時、何の役にもたたないジャパニーズイングリッシュというのに何年間も苦しめられたけれど、ここ台湾に来てみると、日本の漢文の時間とかテストとかは“いったい何だったんだろう”と思う。漢字という素晴らしい共通語があるのに通じ合えないもどかしさ。あの時、中国の人達が読む、話すのと同じ漢字を教えてくれておれば、日本中の人が少しは中国語がわかることになり、中国の心に近づけたかもしれない。中国の名前や地名を日本語読みするような失礼なことをしなくてすんだものを。
アルゼンチン時代、友人達とのパーティで“アジアのことは私にまかせて”とばかりに話していて“毛沢東(モウタクトウ)”と彼の人を呼んだ時、全員が誰のこと言っているのかわかってくれなかった。“どうして、こんな大きな名前を皆は知らないのだろう”と不思議だったのに、後で日本独得の呼び方であったことを知り、大変に大変に恥入った。
 そして、それからは細やかながら中国の人達が呼び合うように、私も中国風に呼ばせてもらうようにしている。
 美しい景色の所を見せに連れていって下さる、というのを断り、「台湾の人々の生活、朝市に連れていって!」。見知らぬ野菜、果物、同じような熱帯のせいかブラジルとよく似た品々も。朝市の山盛りの品々が中華料理になってゆく様を想像する。日本人好みにアレンジしてない台湾の人達の中華料理のおいしいこと。滞在中の日に三度、すべて台湾風であきないどころか、日数が足りない。
 立ったまま、店の片すみのガタビシ椅子だったりの市場の中で、豆花(豆腐に甘露をかけて)、愛玉、仙草…みんな求めて食べた。上品とはほど遠い場所で“どうしてこんなに上手な甘さがだせるのかしら”。唯々感激。この味のために何度でもここに来たい。
 青年のフィアンセが、町を歩き、食事をして、と何度も私に付き合ってくれた。細やかな彼女に、同じアジアの、同じ文化の人間をしっかりと見た。彼女が英語で「日本語が出来なくてごめんなさい」とあやまった。私はびっくりし、「こちらの方こそ、貴女の国へやって来て日本語ばかり話していて……。今度来る時には少しでも言葉を増やし、台湾に近づきたい」

 
 

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