アルゼンチンつれづれ(172) 1993年03月号
日本を案内
此の頃は日本に滞在する方法ばかりを考えたし……日本における自分の場所が出来てきて……ずいぶん久し振りになってしまったけれど、「さあ、日本のお正月をする」と身構えたところで「92年度のうちに、アルゼンチンで書類にサインを終えなければいけない」という命令に、たちまち南米行きの飛行機に乗ってしまっていた。
かくして、暑い暑いお正月を、スペイン語とシャンパンで迎え、それはそれなりに心にしみる思いがあったけれど、日本のお正月のやさしい湯気への思いを益々つのらせた。
一緒に93年を迎えたアルゼンチンの旧来の友人夫妻が、アルゼンチンのすべてが四十日間も休みを取ってしまう夏休みを利用して、「日頃、仕事で関わりのある日本、台湾、香港、中国本土を尋ねたい」ということで、中国のお正月明けをめざし、一月末の日本へやってこられた。
あまりに沢山の飛行時間の後に辿り着いた東洋。彼等とは大変異なった人種が、見ても聞いても一切わからない言葉を使っている。 その心細さは、私には経験済みのことだから、ビジネスに、観光に、自分の全部の時間を案内しようと思ってしまう。
「アルゼンチンとの関連会社を尋ねる」「工場を見学にゆく」「これからのアルゼンチンに適した物は何だろうか、と探すことも」
スペイン語と日本語と、日本語とスペイン語と、言葉が入り混じる。
浅草寺の線香にむせる。仲見世の人形焼の甘い匂いのパフォーマンスに立ち止まる。焼きたての熱々おせんべいは、歩きながら食べてしまう。アルゼンチンの人も「これはお酒に合うね」と一致する。
観音様から少し歩くと合羽橋。道具ばかり売っている町。私は、人を案内する時でなくても一人で来てしまうコース。日々単純に生きることに向けているから「見るだけ」「思うだけ」なのだけれど、アルゼンチの人にも、日本の道具より、日本のいろいろを知ってもらいたい。
そして、お腹ごしらえは、お好み焼の老舗「染太郎」。いつ行っても満員で、靴を脱いであがり、日本式に坐るという外国人にとっては大変な動作を強要することになるのだけれど、私もやはり外人並み。足をもてあますこと限りない。職人染太郎主人の目がとんで、たかがお好み焼とはあなどれない。「焼き次第が悪い」「いじってはいけない」「火を止めるな」と叱られるのだけれどなんのその、何でもかんでもよろしいのだ。
「アルゼンチンでも、肉ばかりでなく、野莱や海の物を焼く、こんなお料理?するといいね」「今度、みんなを集めて、お好み焼パーティーをしよう」とはしゃぎ合いながら。 食後の散歩は深川の江戸資料館。資料館という建物の中に、びっしり、こまごまと、ひと昔前の下町がすっぽりと出来上っていて、何とも妙なこと。
みんなみんな、スペイン語に訳しながら案内するということがあって、私もついでに日本を知ってゆける。
東京を大至急で終えると、今度は新幹線。目的地はやはり京都、奈良。途中、名古屋を過ぎる辺りより雪景色が始まり、ブエノスアイレスは雪が降らないから、そのみごとな白に「日本へ来たことも信じられないけれど、この雪景色はきっと夢」と気が狂ったように窓越しのシャッターを押し続けていた。こんな美しい日本を見せてあげられることがとても誇らしかった。 つづく
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