アルゼンチンつれづれ(180) 1993年11月号
洗足の家
夏休み中だった由野が私の東京の家探しに付きあってくれていた。どこを見に行っても「お母さん、やめなさい、こんな所に住むのは、由野の学校の寮の部屋より狭いじゃないの。性格かわっちゃうよ」
「東京では、今までの外国みたいな訳にはゆかないのよ」
そんな訳で、私の家探しもすっかりあきらめムードで、不動産屋の担当者が「お勧めです」と言ってきたのを、住所だけ確かめ「そこにします」と決めてしまった。それからも、今まで住んでいた人が出てゆく、真新しくなるほどの家の中の修理があり……と忘れてしまいそうに長く待たされた。
「とにかく荷物が納まって、私の居る場所があれば良い」というくらいの不貞腐れ加減だったのに、引越ししてきてみたら、駅近いというのに、新しい建物の形跡のない、椎の木が椎の実をつけ、薄がフワーと穂をなびかせていた。
そんな所に建つ三階建のビルの一番上が私のスペースとなるのだけれど、たったの三階でも、他から見下ろされるとか、のぞかれるということもなく、そのうえ、家の作りが東西南北皆大きな透明ガラスの窓という、プラネタリウムかアトリエかという面持ち。
この沢山の窓から、暮れてゆく東京、星よ月よ、風が吹く、朝は日の出と共にあり……しばらくは恍惚としていた。けれど、ここを住まいとしなくてはいけないのだと正気にかえり、小さな家の真ん中にいても四方から押し寄せてくる明るさに、まずカーテンを探しに出かけた。
模様はいや、激い色はだめ、クリーム色は無い……ということで、急いでいたから、ちよっとトーンを落しているとはいえ、ピンクになった。
出来上ってきたカーテンを家中の窓に掛けると、それこそ家の中がピンクになった。ピンクの家に住む、なんて考えてもみなかったのに、そうなった。
ロサンゼルスで使っていた蒲団を持ってきた。アメリカではウォーターベッドにしていたから、そんな巨大な物は運べない、そこで上の方だけ持ってきた。
さて、洗足での初めての夜、寝ようとして驚いた。下に敷く物が無い。毛布やベッドカバー、シーツと皆重ねて敷いてみたけれど、これではまだほとんど床に近い状態で、背骨が痛くて寝られない。
この家に押し入れという所が一箇所だけあるけれど、そこは、上の段はアルミパイプを渡して、ブラウスやジャケットなど丈の短いものを掛けたら、すぐ満員になった。下の段は、母がアルゼンチン行きに持たせてくれた着物の罐を三つ入れたらいっぱいになった。 布団を仕舞う、というスペースはなくなった。敷布団を買うか、ベッドにするか、まだ決められなくて、夜毎背骨と格闘している。 いま気付いたのだけれど、プラネタリウムみたいな家というのは間違いで、ここは普通の家なのだ。
私は、引越し荷物と一緒にこの家に入るなり、六畳とかいって仕切られている襖とか、ドア、戸という存在を全部取りはずしてしまい、一つのスペースにしてしまったから。
日本の家がおかしいんじゃなかった。日本で、一人で自分の生活をしようと思いたって、私自身がおかしくなって帰ってきたんだということに気が付いた。
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