アルゼンチンつれづれ(182) 1994年新年号
ストレス
アルゼンチンで生れ育った私の子供達が、日本の人達と同じ日本人であってほしく、アルゼンチンから日本へ留学、なんて妙なことを考えだし、日本で暮した五年間。すっかり日本の子供になれたような気がしたから、今度は、世界に育ってゆくのに必要な、本当の英語を使えるように、アメリカヘ引越していったのが、丁度サンクスギビングデーの季節だった。
生活をする、という点では無であったアメリカにはやく入り込んでゆけるよう、このサンクスギビングというアメリカの行事を、私は町を見回し、本を買い、子供達の助けを得て、我が家のサンクスギビングデーを作りあげた。
少しずつ上手になってゆくサンクスギビングを何度か重ね、私の仕事の都合でその日を子供達と過ごせなかった年は、玉由が「かわいそうな子」を皆集めてパーティしたから……とまだパーティの続きのような家へ帰り着いたこともあったりした。
玉由が言う「かわいそうな子」とは、この日を家族と共に過ごすべく、何処からでも馳せ参じるアメリカの習慣に、何らかの都合、家族が居ない、行きたくない……この日を一人ポツネンと過ごさなければならない子のことで、そういえば「はぐれっ子」が何人か私の焼いたターキーをいつの年も食べに来ていたっけ。
去年私は、その時期日本にいたけれど、子供達を「はぐれっ子」にしたくなくて、飛行機に乗ってターキーを焼きに行った。
いよいよ今年も。ボストンに由野、ロサンゼルスに玉由、それぞれの所へ出向いて、それなりのことをしなくては……。
ボストン、LA、そうなればついでに南米なんて言っているうちに、やはりまた世界一周の距離になってしまう。
自分の理性に基づいて、何の抵抗も感じない計画だったはずなのに、このところの私、「飛行機に乗る」という事態が起ると全身にパッと湿疹ができる。あまり驚いて、皮膚科のお医者さんで血液検査やらの細々にも何事も見出だせなくて、「こんな生活をしていました」と話したら、「それでよくまあこれまで生きていましたね」と「ストレス」を宣告された。
「まさか私が!」とは思いつつ、「これを塗れば直りますよ」との塗り薬と「もう自分がついているから安心してください」との指導に、たちまち湿疹は跡かたもなく消えた。 そんなことも、もう克服出来たかなと思っていたのに、今回の航空券を持ったとたんにまた湿疹が出た。
「由野、航空券は用意出来たけれど、どうしようか」と相談の電話をしたら、「ボストンはとても寒いんだ。だからサンクスギビングの休日は友達とフロリダヘ日光浴に行く計画したの」「じゃ、行かなくても淋しくなく過ごせるね」「うん、大丈夫、リラックスしてくるよ」
「玉由、どうしようか」と、今度はロサンゼルスヘ電話した。「学校と仕事と習ってることと……とにかく全然家に居る暇もないほど忙しいの。せっかく来てくれても相手してあげられないよ」「はぐれっ子にならないのね」「大丈夫。機嫌よく自分のこと楽しんでいるよ」
死にそうに熱があった時でも、国際電話の私に「元気だよ!」と、心配させまいとする子だから気にはなるけれど、「思い合っていられるんだから、離れていたっていいじゃない」という玉由に甘えて、私のアメリカ行きを中止。
今回の航空券は「いつでも行くからね」とひとまず「お守り」になって、出発日はOPENとなった。
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