ことのはスケッチ(422) 2014年(平成26年)2月

『貫名海屋私注』A

 貫名海屋、安永七年(一七七八)三月、徳島城下西富田弓町一丁目の角から二軒目。
 吉井家二代目の父、吉井永助直好と母、矢野勘五郎常博の 長女の第二子と誕生した。

 父方吉井家の家系。
 藤原鎌足の後裔といわれ、日蓮を祖にもつ吉井家の祖先が藤原姓であることを知る資料は、「貫名泰次郎藤原苞」と海屋肉筆記載の由緒書が残る。
 海屋は、先祖の姓「貫名」を、藤原氏の末裔の意識をもち、自らの号とした。

 藤原鎌足の後裔、備中守藤原共資の代、遠江国(静岡県引佐郡引佐町井伊谷)貫名郷に移住し、姓を貫名と改め、貫名四朗、四代を貫名の地に移住したが、横須賀領主、貫名四郎直行の代、家臣の謀反にあい、土佐幡多郡吉井村に、幼くして難をのがれた、吉井八郎左衛門直兼、ここに吉井家の元祖となる。

 六代後、六右衛門、慶長の頃、阿波に移り後、塩の産地鳴門市に住居。塩方支配を勤め後、徳島移住。森川藤後兵衛の弟子にして「礼方」を学び、これより阿波藩主、蜂須賀侯に小笠原流の「礼法」をもって仕え、賄奉行などを兼職した。

 母方、矢野家の家系。
矢野家は、初代から蜂須賀藩に仕えた料理方。海屋の母の父、五代勘五郎常博の代になり、本職の料理方のかたわら藩主からの所望に応え、飛?丸屋形の絵、川船の絵、城廻りの絵図等を制作。絵の奉仕も行うようにはなった。

 矢野勘五郎常博の長女は、吉井永助直好に嫁し、二男として海屋が生れた。
 常博は、海屋の祖父であり、狩野派の絵師として名高い矢野栄教典博は、海屋の叔父にあたる。矢野家が本格的に蜂須賀藩主に絵師として奉仕するようになったのは典博からであった。
 矢野家は、仏教、僧侶との関係の深い家柄で、海屋の母の末弟「霊瑞」は出家し、高野山青巌寺の住職と。最高の地位に達した。
 海屋が、叔父を慕って高野山に入山したのは十七歳の時。霊瑞は四十三歳。
 霊瑞のはからいにより、空海の真蹟に接し、書の研鑽に励んだ。
 霊瑞の高潔な人格と人間性、偉業に接すると共に、甥の海屋の非凡な才能を見抜き、学徳、道の指導、人生観、究道の精神、将来への決意が固まっていったことだろう。

 私の子供達の祖父、貫名泰比古は、海屋の曽孫にあたる。吉井家初代、吉井泰右衛門直房。吉井家の藤原の出である由緒書、海屋肉筆署名の「貫名泰次郎藤原苞」。
 重い泰にであった
                          つづく
             参考文献 貫名菘翁精説 田中双鶴編

 
 

 


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