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随筆> ことのはスケッチ(424)『貫名海屋 私注』C
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ことのはスケッチ(424) 2014年(平成26年)4月
『貫名海屋 私注』C
貫名海屋と時を同じくした江戸中期より幕末、明治…にかけ、書、和歌、画、陶、…京都の文化を造りあげてきた芸術家の交遊を知りたい。
蓮月が幼くして和歌を知ったのは、知恩院山内の住持職の父親の、家庭での聞きおぼえからはじまった。
蓮月は、二度の結婚での五人の子供をはやくに亡くし、病む夫も看護むなしく亡くなってしまう。
蓮月は、一八五三年、ペリーの第一回、第二回の来航に、黒船を不吉なものとは見ず、西洋の医術を乗せてくる救済者とみていた。世の新しい出来事に敏感に気付く人だった。
○ふりくとも春のあめりかのどかにて世のうるほひにならんとすらん
蓮月は、大変に美しい人で、尼の衣にもうるさく言い寄る相手に対し「前歯を自ら打ち欠きてその相貌を変ぜし」とは、自分で歯を抜き、鮮血は飛び散ったという。
後に、鉄斎は「蓮月はそれくらいのことならする人だった」と答えている。
○つねならぬ世はうきものとみつぐりのひとり残りてものをこそおもへ
○たらちねのおやのこひしきあまりにははかにねをのみなきくらしつゝ
埴はにをこねて、茶器を、煎茶用の急須、徳利、盃、鉢、皿、茶碗、水指…などに自詠の歌を彫りつけた。これで生計をたてた。
○てずさびのはかなきものをもちいでゝうるまの市にたつぞわびしき
○あけたてば埴もてすさびくれゆけば仏をろがみおもふことなし
富岡鉄斎は、京都三条衣棚西入る太郎山町、祇園の中心地域に生れた。一八五○の年頃、侍童として蓮月と同居、鉄斎の画がまだ独り歩きのおぼつかない時期、蓮月は、鉄斎のために歌を印した半切や短冊を数多作り、鉄斎がそれに合った画を描き加え、鉄斎の収入になる方を講じていた。
蓮月は、肉類はいっさい口にせず、かつお節さえ用いず、大根の葉を煮たものが好物と、粗食の人だった。衣類にもこだわらず、わずかなお金で足りたというが、飢饉に際しては、匿名で三十両を奉行所に差し出し、また鴨川の丸田町に橋がなく不便だったところに、独り資金を貯え、材を買い、人夫をやとい、車がすれちがっても渡れる幅の「丸田町橋」を架けた。
貧しい人々が困苦に喘ぐときは、粥施行所に喜捨し、月心和尚に観世音の仏画を描いてもらい、鳩居堂で売り、売り上げ金で餅を配った。
「世のため人のため」を忘れることがなかった。
蓮月は八十五歳で歿した。桜大樹の下、鉄斎筆の「太田垣蓮月の墓」。
○ねがはくはのちの蓮の花のうへにくもらぬ月をみるよしもがな
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