ことのはスケッチ(425) 2014年(平成26年)5月

『貫名海屋 私注』D

 富岡鉄斎。京都三条、法衣商の次男。鉄斎の父、維叙と交流のある太田垣蓮月尼。尼の一人暮しを心配し、鉄斎を侍童と蓮月宅に住み込ませた。
 鉄斎は、学問のかたわら蓮月の作陶など手伝い、書画にいそしみ、人格を形成していった。
 鉄斎二十代半ば、支那(シナ)、阿蘭陀(オランダ)の事情を知るため長崎へ遊学し、南宋画などを学んだ。長崎から帰り、聖護院村で私塾を開く。
 鉄斎の座右の銘「万巻の書を読み、万里の道を行く」、を実践。日本各地に旅をした。

 明治七年、約四ヶ月間、北海道、東北、関東…。北海道ではアイヌの生活、風俗、「旧蝦夷風俗画」。
 明治八年、富士山に登山し、その作品を数百点残している。
 富士山を描いた屏風「富士山図」。

 教育者として、私塾立命館で教鞭、京都私立美術工芸学校嘱託教授に。
 京都美術協会が発足すると、評議員に選ばれ、公職が忙しくなる。

 明治天皇の命の御用画の制作。「神仙高会図」「阿部仲麻呂」を献納。
 明治天皇の行幸に供奉し、鉄斎は、はじめて東京へ。
 明治天皇の鹿児島行幸に随行。

 鉄斎は老いるほど絵に輝やきが増し、文人画を基本に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など、様々な様式をもとに独自性をもった作品を数万点残す。

 京都岡崎、西賀茂、聖護院村と、住居を変えた。
 鉄斎の描く、聖護院村略図には、大田垣連月の家、黒谷通りをはさんで鉄斎の家、その近辺に、高畠式部、税所敦子(歌人)、小田海僊(南画家)、中島華陽(丸山派画家)、貫名海屋(書家)…幕末から明治期にかけた文化人の住居が描かれている。
 当時の京都を代表する文人たちの交遊。影響。蓮月は、庵居していた知恩院を離れ、文人墨客の踏を偲び京都岡崎へも居を移し、貫名海屋、富岡鉄斎などと交遊を深め、作歌、作陶にいそしんでいたが、多くの文士、志士たちが蓮月のもとを訪れるようになると、静寂を求め北白川、聖護院、西賀茂…と移り住んだ。

 鉄斎は、八十九歳になっても制作意欲はおとろえず、生涯でこの一年に一番多くの作品数を残し、もうすぐ九十歳になろうする時に亡くなった。
 「胸中の山水を写す」という絵を残し。

 
 

 


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