ホーム>
随筆> ことのはスケッチ(426)『貫名海屋 私注』E
|
ことのはスケッチ(426) 2014年(平成26年)6月
『貫名海屋 私注』E
長い長い外国での生活でした。日本を知らないことを思い知り帰り来ると、沖縄から北海道まで、せっせと旅をした。自身の日本での居場所探し。京都にはことあるごとに出掛けていたのだった。
ある日、桃山丘陵の方向に行こうと、まず伏見稲荷大社を訪ね、その道なりを歩いていると、静かなたたずまい竜宮門。石峰寺とありました。登る感じをお邪魔し、どなたも居られなかったまま、石峰寺の本堂背後、羅漢山へ登り着き、そこは、風化された静寂。静かに入り込み、自らを石像群のなかのひとつと化し、ずっとずっと座って居たのでした。(この日の出来事は、二○○五年一月号のことのはスケッチ(313)伊藤若冲と貫名海屋と、掲載)
江戸時代の画家、伊藤若冲の下絵により、石工が彫りあげた石仏群。安永より天明初年までの十年余をかけ、五百羅漢を、釈迦誕生より涅槃に至るまで…裏山一面の石像群のお姿です。それはそれは安心の場所でした。
帰りがけ、若冲居士のお墓、その脇の長く筆形に立つ、貫名海屋、若冲を讃えて揮毫の筆塚に出合ったのでした。
若冲居士と貫名海屋と同じ時を同じ京都で共有されたことを確かに知るのでした。
筆塚には、どんなことが書かれているのだろうか。いつかきっと読んでみたい。私なぞ出過ぎてはいけない。など思い続け…でも我慢出来なくなり。石峰寺様にお願いをいたしました。すぐ筆塚“拓本コピー”“読み下し文”をお送り下さいました。
後の日々、眺め続けていました。そして私なりの解釈の無礼を詫びつつ、私の子供達が理解出来る言葉に書かせていただきます。
『筆塚』
伊藤若冲碑、所在、京都市伏見区深草石峰寺
@若冲居士の作画の画風は、奇想と形容するのにふさわしい。
A生前に建てた墓碑に刻まれた碑文を読むにつけ、人となりを想い描けます。
B若冲居士の心の使い方は、普通とは異なることを知るのです。
C石峰寺の裏山にある五百羅漢の石像に、終生にわたる若冲居士の心を思います。
D若冲居士は、若い時より型どおりの画法を模倣することには不満をもちました。
E周到な厚い心をもって水墨花鳥を制作しました。
Fある人は、若冲の絵画は、功を凝らしているけれど、墨だけで描いた水墨画の域を出ず彩色をすると上手に描くことが出来ないだろうと批評をしました。
GH若冲居士は、このことを耳にし、特大の彩色画を数十幅制作し、その上に詩を記しました。
I現在、相国寺に収められているものです。
J自分自身を大切にし、むやみに人に従うことの無かった人です。
KL作品が散逸することのないよう、相国寺に集めておく思いがあったのでょう。
つづく
|
|
|
|