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随筆> ことのはスケッチ(433)『アントニオ・ガウディ』
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ことのはスケッチ(433) 2015年(平成27年)新年
『アントニオ・ガウディ』
外国での私の経験は、闇雲にはじめてしまった船旅の末、辿り着いたアルゼンチン、未知だった國で「セリーナさん」にめぐり遇えたこと。彼女の庇護のもと、彼女を通して、知らなかったことを知ってゆけた日々。セリーナさんが心にいて、そして私。
スペインがルーツのセリーナさんは、胸元に「受難のキリスト像の金のネックレスをされていた。“キリストの苦を共に”されておられたのでしょう。あまりに気の毒なキリストのお姿に、私は「はやく、十字架から降ろして下さい」と願い続けている。
バルセロナにきて、バルセロナを歩いて、サグラダ・ファミリアに着いた。今まだ建築中の大きな幕に覆われている所があるまま、天に突き出るカトリック教会。
今どき、ネットで予約が出来、あちこちの行列を後目にどこでも楽々入ってゆかれた建物の天を仰ぐほど高くに天井を見上げ、「セリーナさん会いにきましたよ」。と思ってしまった。
こんな凄く、セリーナさんを思い起してしまうものを造り続けた「アントニオ・ガウディ」の一世を私の心に刻みたい。
ガウディは、スペイン・カタルーニャ出身の建築家。アールヌーボー期のバルセロナを中心に活動。ガウディ家の先祖は17世紀にフランスからスペインにやってきた。
ガウディは、銅板を加工して鍋やかまを作る銅細工職人の家系に生まれ、病弱だったため他の子供達と遊ぶことはむつかしかったけれど、紙細工で家を作ったりしていた。学校に入学すると、友人と三人で雑誌「エル・アルレキン(道化という意味)を発行した。ガウディは挿絵を担当し、学校の行事の際には、大道具や小道具など制作した。
三人は、タラゴナのローマ遺跡や、ポプレー修道院見学にゆき、当時、廃墟となっていた修道院の修復計画をたてたり、水彩画を、描いたりした。
後、ガウディは、バルセロナで建築を学ぶ。学業と平行し、いくつかの建築設計事務所で働き、公園の装飾や修道院の装飾にもかかわった。パリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のショーケースのデザインを・この作品を見初めた繊維会社を経営する富豪エウビオ・クエルが、その後40年あまりパトロンとしてガウディを支援した。
1883年、サグラダ・ファミリア専任建築家に推薦され、その建築に全精力を注ぐ。バルセロナの財政危機により建設が進まないこと、パトロンのグエルが死去したこと。
1925年ガラディは、サグラダ・ファミリアに引越し、作業に集中する。
1926年、ミサに向かうガウディは路面電車に轢かれ、浮浪者とまちがわれ手当が遅れ、死亡。サグラダ・ファミリアに埋葬される。初恋がかなわず、終生独身であった。
「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」
数学や方程式によらず、実験装置「逆さ吊り模型」。綱状に重りを数個取り付け、その綱の描く形態を上下反転した。垂直加重に対する自然で丈夫な構造形態と考えた。
神とバルセロナの人々の意志により現在も建設は進められている。
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