ことのはスケッチ(434) 2015年(平成27年)2月
『天田愚庵』
毎月々、上野文化会館に於て「山岡鉄舟研究会』の講義を聞かせていただいている。山岡鉄舟、清水次郎長、由利滴水、正岡子規、夏目漱石…そのつながりに、和歌、漢詩に優れる「天田愚庵」の存在。偶然、ニコライ堂へ行ってみたり、遠くはあるが身内が戊辰戦争に直面したり。『天田愚庵を自身に教えるめに』書こうと思いたちました。
天田愚庵は、1854年(安政元年)磐城平藩士の家に生まれ、1868年戊辰戦争において磐城國も戦場となり、兄が出陣、愚庵15歳で出陣も仙台へ落ち延び、父母妹らは行方不明となる。
1871年に上京し、神田駿河台のニコライ神学校に入る。縁あって山岡鉄舟の門下となり、国学を学ぶ。東海道、中國、九州を歴訪、長崎滞在中に、佐賀の乱が起こり、牢につながれるが、獄中で歌人の丸山作楽と出会い、短歌、国学を学ぶ。
鉄舟の勧め、清水次郎長に預けられ、1881年次郎長の養子となり、次郎長の経営する富士山裾野開墾事業に尽力するが不振を極め、養子を辞し、天田姓にもどる。
鉄舟の紹介で京都林丘寺の由利滴水禅師のもと、参禅し、禅僧となる。京都清水産寧坂に草庵を成し、愚庵と号する。
1896年、正岡子規を病床に見舞う。
愚庵の庵に長く滞在した桂湖村が帰郷するにあたり、園中の柿15個と松茸を彼に託して子規の病床に届けた。愚庵は、子規からの便りがないことに、
「まさをかは、まさきくあるか かきのみのあまきともいはず、しぶきともいはず」
子規は愚庵に、
「みほとけに そなえし柿の あまりつくらん我にぞたびし 十あまり五つ」
「柿の実の あまきもありぬ かきのみの 渋きもありぬ しぶきぞうまき」
「柚味噌(ゆみそ)買うて愚庵がもとに茶を乞はん」 子規
「一東の韻に時雨るる愚庵かな」 夏目礎石
戊辰戦争に行方不明になった両親、姉を捜し求め、かねてより鉄舟の「現し身の親に逢うことはもう叶うまい。我が心中に親の姿を求むべきである」との教えに従って、西国三十三所巡礼に旅立つ。清水の産寧坂の庵を出る愚庵は法衣を腰揚げ裾高に着、玉襷(たまだすき)を頂に高く引結び、袱子(ふくす)を掛け、樫の撞木杖(じゅもくづえ)をつき、深編笠を被(かぶ)ったその顔は、色黒く頬高、眉毛は濃く太く、鋭い眼光があった。
「経もあり仏もあれば我もあり こころのおくに亡なきひと人もあり」
「一には父母菩提のため、二には衆生結縁のため」巡礼百日のうちに千五五十人の結縁を得。愚庵の書き記したもの。
- 一、道順は先ず伊勢の大廟に詣で、次に熊野三社に参り、然後番号に従い、一番より打始むる事。
- 一、一箇所に一夜ずつ、参さんろう籠通夜する事。
- 一、札所の外にも、神仏霊場、名山大川は、最寄に従い、成るべく登臨参詣する事。
- 一、道中はみだりに舟、車、馬、駕籠に乗り、巡礼の本意を失うべからざる事。
つづく
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