ことのはスケッチ(435) 2015年(平成27年)3月

『天田愚庵』A 天田愚庵と正岡子規

 明治二十八年、神戸の病院を出て、東京に帰る途中、子規は歩くのに少し困難を感じつつも、奈良に遊ぶ。 大仏殿の中門に向って右側、鏡池の上にさし出して建つ『角正』に宿る。
宿の仲居に「まだ御所柿は食べられますか」と。仲居は、錦手の大丼鉢に山のごとく柿を盛り子規のために、せっせと柿をむくのだった。
柿も旨い。場所も良い。ボーンと釣鐘の音。
「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」
「大仏の足元に寝る夜寒哉」


陸羯南、始めて愚庵に合ったのは、愚庵が仙台中教院で、落合直亮の国学、歌道の講義を受けた、その時の同窓生、国分青高訪ねた頃。
陸羯南が愚庵の京都の林丘寺を訪ねたり、愚庵が法月で東京に出、陸宅を宿としたり。また愚庵は、東京蔵前回向院の大相撲(梅ヶ谷、常陸丸の時代)を観戦に上京。初日から千秋楽まで、陸宅に泊まった。陸羯南との縁で、根 岸に住みはじめた子規は、
「鶯のとなりに細き庵かな」
「鶯の遠のいてなく汽車の音」

「涼しさやわれは禅師を夢に見ん」
「衣更へて愚庵を訪はん東山」


愚庵は子規に
「園中の柿秋になり候はば一筐かご差上可申と今より待居候事に緩々御保養可被成候」
子規
「十二勝己外にうまき柿の木も御庭に有之候趣にて此秋は御送被下候との事待居申候」「柿の実は鳥に落させぬやくれぐれも御願申上置候」
愚庵の庵に長く滞在していた“湖村”が東京へ帰るにあたり、柿を子規のもとへ持参した。子規は小説執筆に紛れ、暫く礼を怠った。愚庵は子規に、礼無きを責める歌を書いた次第は(「天田愚庵」@に記載)

子規
「祇園の鴉愚庵の棗くひに来る」
「野菊持ちし女の童に逢ひぬ鈴鹿越」

この句を、子規は愚庵の「巡礼日記」に依って作った、と「試問」に書とめている。

愚庵全集より「子規宗匠」
「まだ死ぬな雪の中にも梅の花」
「独りしていそぐ旅かな雪のそら」
「こたつして君和韻せよ十二勝」


子規は、陸羯南の新聞「日本」に「歌よみに与ふる書」を連載。
明治二十一年このかた子規の作りつづけてきた歌は一変した。
丸山作楽(さくら)より天田愚庵に伝えられた万葉調の歌は子規の和歌革新運動となった。歌壇などとは没交渉、独り静かに歌を詠んでいた愚庵の存在は、子規に大きく影響した。

愚庵没後百年行事の“いわき市”に、子規の「柿熟す愚庵に弟子も猿もなし」と句碑。京都愚庵邸より“ゆかり”の柿の木が移植された。

 
 

 


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