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ことのはスケッチ(436) 2015年(平成27年)4月
『天田愚庵』B 年譜
△安政元年(一八五四年) 愚庵 一歳
七月二十日、磐城国平城下、父甘田平太夫(平藩士、号を平遊。母浪なみ(平藩医、林竜沢の次女)の五男として出生。幼名を久五郎。
この年、ペリーが浦賀に再来航。その対応に幕府存亡の危機が深まる。
△安政五年(一八五八年) 五歳。
十月十一日 妹のぶ生まれる。
ハリス来日。
日米修好通商条約
△安政七年(一八六○年) 七歳。
咸臨丸太平洋横断。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗っていた。
△元治元年(一八六四年) 十一歳。
兄、善蔵(真武)の家督相続。勘定奉行より山奉行に出任。
△慶応二年(一八六六年) 十三歳。
△慶応三年(一八六七年) 十四歳。
夏目漱石誕生。
睦仁親王(十六歳)明治天皇となる。
正岡子規誕生。
徳川慶喜、朝廷に大政奉還。新政府軍への江戸開城。
坂本龍馬暗殺される。
明治天皇、最初の閲兵
△明治元年(一八六八年) 十五歳。
山岡鉄舟が使者となり、勝海舟と西郷隆盛との会議を成立。
戊辰の役。
兄善蔵の出陣。
久五郎は、元服を認めた父の書面をふところに、兄善蔵の妻の父、加藤覚左衛門が守備につく谷川瀬の陣へ向った。これが、母や妹との最後の日となった。
谷川瀬の陣で覚左衛門は、久五郎の前髪を落し、陣中元服を行った。
久五郎は陣を抜け出し、戦禍の跡を歩いていて、思いかけない所で「おい久五郎」「父上」と出合った。そしてすぐ別れる。元服後の侍の姿を父に見せることが出来た。
幾世橋に平藩の難民に混じる兄善蔵と会う。兄は再び戦場へ、久五郎は、婦女子を護って相馬より仙台へ落ちのびる。
父母妹、行方不明となる。
兵乱鎮まり、仙台より平に帰り、小泉村の瑞光寺に身柄を
おく。
△明治二年(一八六九年) 十六歳。
兄善蔵と小野甚作方に奇遇し、父母妹の行方を探すも手がかりはなく。
八月、平藩の藩校佑覧堂が再開され、直ちに入校。
△明治四年(一八七一年) 十八歳。
七月、廃藩置県と同時に藩校廃止となる。
兄善蔵、天田真武と改名。
久五郎も天田五郎と改称。
この秋、学友伊藤祐之と猪瀬伝一を追い上京。
五郎は、同郷の保科保(後の京都八坂神社宮司)の紹介により、神田駿河台のニコライ神学校に入学。
東京・京都・大阪・長野間に郵便開設。郵便切手発行。郵便ポスト。
山岡鉄舟、明治新政府に出仕。
△明治五年(一八七二年) 十九歳。
五郎、ニコライ神学校をとびだし、神学校の安藤憲三の紹介で、石丸八郎(教部省の役人)を知り、その紹介で小池詳敬(正院大主記)の食客となる。
小池詳敬の紹介で山岡鉄舟の門下となり、禅学を受ける。小池の口ききにより落合直亮に国学を学ぶ。
明治天皇、はじめて牛肉を召し上る
太陽歴の採用。
新橋、横浜間に鉄道が開通。
山岡鉄舟、明治天皇侍従に任命される。
△明治六年(一八七三年) 二十歳
三月、落合直亮、仙台志波彦神社宮司として赴任、直亮、神職の傍ら中教院という塾を開く。
天田五郎 ここに学び、漢詩の国分青高ニ知り合う。
小池詳敬に伴われ、石油会社株式募集のため東海道、中国、九州地方へ赴く。
政府の征韓論に反対、西郷、板垣、江藤ら参議を辞職。
太陽暦実施。
明治天皇、率先して断髪。最初の公園、浅草、増上寺、上野台地、富岡八幡、飛鳥山。
△明治七年(一八七四年) 二十一歳。
二月、長崎滞在中、江藤新平の「佐賀の乱」起る。
四月、台湾征討、同志と志願して従軍。
六月半、討伐終り東京へ凱旋。
東京市街に初めてガス燈点火。
△明治八年(一八七五年) 二十二歳。
外国郵便の取扱実施。
最初の女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)
新島襄らが同志社英学校創立。
清国談判問題により、伊藤祐之等と警視庁に拘引され、数ヶ月拘留の後、禁獄三十日に処せられる。獄舎に、万葉調の歌人として名を残した丸山作楽と出合う。
△明治九年(一八七六年) 二十三歳。
五年振りに兄真武を郷国に訪い、古郷の城址を訪ね、五郎はじめての歌を詠む。
『吹く風は 問へど答へず 菜の花の 何処やもとの 住家なるらむ』
奥羽諸国から北海道へ、父母妹を捜索の旅に出る。
北海道函館にて肺を病む。
廃刀令の制定。
△明治十年(一八七七年) 二十四歳。
北海道より帰京。山岡鉄舟の庇護を受け、浅草梅園院寺に病後の身を養う。
二月、西南の役。
九月、西郷、桐野、増田ら死す。
国分青香A福本日南と、彼らの同級陸謁南を知り。また、大山育造、桜井一久、加藤拓川らを知り。また、加藤は正岡子規の叔父。
越前、加賀、越中、越後へ、父母妹を尋ねる。
東京大学開設。
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