ことのはスケッチ(437) 2015年(平成27年)5月

『天田愚庵』C 年譜

「天田愚庵」B年譜において、書き残した逸話を追加。

△明治元年(一八六 年)愚庵十四歳。

  • 太田垣蓮月尼は、西郷隆盛を知ったのは、戊辰の役が突発し、薩長が先陣をとり京の都を出発しようとした時のこと。
    馬上の島津公が三條大橋にさしかかろうとした時、橋の西詰に身を潜めていた七十八歳の蓮月は、槍をたててゆく護衛に向い、真紅な短冊を「公に取り次ぐよう」渡そうと試みた。
    護衛は槍で祓(はら)おとしたが、「老尼であるならば」そのまま行きすぎると、次の馬で迫っていた大の男が「何でごわす」と。 蓮月は短冊を奉げ、「蓮月と申し、目出度ご出陣と存じ、お取次ぎのほどを…」
    西郷隆盛は、馬上から受け取り、一読。その短冊を左手に高くかざすと、声に出して読みあげた。
    『あだみかたかつもまくるも哀れなり同じ御国の人とおもへば』
    同じ味方と出陣を祝うのであっても、味方にも仇にも、ともに同じ哀れを注いだもので、隆盛はこれを快く受け入れたのだった。
    「この短冊はたしかに取次ぎます」と声をかけた。
    先陣が大津に一泊した際、蓮月の一首が話題になり、諸将たちは協議をし重ねた。
    「正しい未来を迎えるためには、今、討幕のことよりないが良い結果が得られるのであれば、仇味方ともに鉾をまじえることなく徳川を下した方が良いにきまっている、幕府とも談判に尽くし、その上のことにしても遅くはない。蓮月の一首は、それを教えてくれている」西郷隆盛がしめくくった。
    このことが大きな転換をきたし、大交渉の道が開き、山岡鉄舟らを動かす結果となり、遂に徳川幕府もこれを最後に無血のまま江戸城を明け渡すことになった。
    当然起るはずであった江戸百万の死、血の海を見ずして大偉業をなしとげ得たのだった。この三條橋の上の直訴のことは、美しく全国にひろまっていった。
                参考資料
                 漂白の歌人僧、愚庵、蓮月尼伝
                         真下五一

  • △明治十一年(一八七八年)  愚庵二十五歳
  • 板垣退助らの創立した愛国社の同志として、商人に変装し、京都、山陰道に入り、大阪に暫く滞在。その間、すでに前科一犯の愚庵の政治活動を心配した山岡鉄舟の書状を受け、静岡の宿舎で対面。
  • 清水港の侠客・次郎長、山本長五郎に愚庵は託せられた。
  • 明治十二年(一八七九年)愚庵二十六歳。
  • 関東・東海・近畿に縄張りをもつ親分衆に、父母妹の探索に力をもらう。
  • 衣食住が保証され、父母妹探しに打ちこめ、愚庵に安らぎがもどり詩歌への創作意欲が目覚めた。
  • 富士裾野の開墾地大淵村(富士市)は清水から十二里余り、徒歩一日の行程。
  • 愚庵は、次郎長への感謝に、次郎長の伝記を書き残したいと「東海遊侠伝」(次郎長物語)〔仙石衛門と大政からの聞きとりが中心。)
  • 詩作歌作(漢詩四十六作品、短歌五十首)を「戊寅口占」と出版。
  • せこやこひし勢子や恋しとおもふより夢に入りしかあはれ我妹子
  • 「次郎長伝」を鉄舟に預けた。
  • 兄と連名で諸新聞に「父母妹」の捜索を、懸賞金百円の広告をだす。日本初の懸賞金広告となる。
  • 鉄舟の保証にて、浅草の写真師、江崎礼二に入門。写真術を学ぶ。
  • 琉球王国の消滅。沖縄県となる。

  • △明治十三年(一八八○年)愚庵二十七歳。
  • 小田原に写真館開業。おおいに繁盛した。ついで旅回りの写真師となり、熱海、伊東、河津、川奈、下田、松崎、修善寺、三島を経て東海道、京都に至る。さらに近畿を巡り、東山道、甲信地方を回り、東京に出、次で郷里平まで。父母妹の手がかりはなし。
  • 小車の廻り逢へずに十ととせ年余り歳の三みとせ年となるぞ悲しき

  • △明治十四年(一八八一年)愚庵二十八歳。
  • 国会開設される
  • 「東京曙新聞」に再び父母妹捜索の新聞広告をだす。
  • 次郎長の懇願と鉄舟のすすめにより、写真師をやめ、正式に山本家の小政、大政につぐ三番目の養子となった。
  • 開墾地を農地に変え、養鶏場を建てるなど新たな試みに意欲。
  • 法律学校で知り合った陸羯南、国分青崖、加藤拓川、福本日南らが富士山に登ったことを知る。
  • 愚庵も富士山頂を目指し、山頂に立つた。風景がそのまま言葉になり、長歌、反歌となる。
  • 水無月二十日、不二の高嶺に登り詠める歌。

  • なまよみの かひの国 うちよする するがの国と ふた国と かけてたふとき ふじがねに のぼりてみれば  玉久(たまく)しげ はこねの山も あしがらの やまをもやと みえわかぬ それをおもへば とりが啼 ひがしのそらのう ちひさす 都はいづらと あまのはらふりさけみれば はろばろに さだかならねど すみだ河 ほそぬのしくと おもへらく 我ふるさとを 草まくら たびねなだらに みることの そのうれしさよ そのうれしさよ

    ふじがねにのぼりて四方の国みるもまづふるさとの空をたづねて


    △明治十五年(一八八二年)愚庵二十九歳。
  • 次郎長経営の富士裾野開墾事業の監督になる。
  • 酸性土のため農作物が思うように育たず、赤字経営が続き困難をきわめた。
  • 正岡子規(十七歳)松山中学を中退し上京。陸羯南の家に出入り始める。
  • 上野動物園開園。

  • △明治十六年(一八八三年) 愚庵 三十歳。
  • 次郎長にかかわる養魚場の訴訟問題に、愚庵は法律を精読し、解決に奔走した。
  • 囚徒や博徒を使っての開墾事業は困難を極めた。
  •                      (つづく)

     
     

     


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